9月例会で出た議論も踏まえつつの感想を、宮教大の本田さんが寄せてくれました。以下に掲載し、報告に代えたいと思います。
特集1は、戦後まもなく各地の学校で展開された「学校づくり」は、学校・教師への管理統制や保護者・地域との共同の困難さなどから今日ではその取り組みが困難になってきています。そのような状況のなかで、「ひとり」からでもどのように展開していけるか。この点に関わるものです。
筆者自身は、現在の文脈のなかで、「教育課程の民主的・自主的編成」に「ひとり」からでもどうやって取り組んでいけるか。その理論化の課題を自らの仕事と考えている。民主的・自主的な「学校づくり」と「教育課程編成」は、車の両輪であると考えながら、特集の各論考を読んだ。
この二つのテーマは、教科研でもそれぞれ「学校づくり」分科会、「教育課程と評価」分科会で実践の交流と研究が行われているが、この両者の間にももっと相互交流がなければ情勢を打開できないのではないか。「ひとり」からでも始められる学校づくりと教育課程づくりを、「みんなの」ものにしていくためには・・・
特集の構成全体に関わって言えば、佐藤光音実践(「枠の中で枠にはまらず やりたいことを形に」)が冒頭に来ているのは絶妙な配置だと思う。富樫千紘論文「戦後日本における学校づくり実践の誕生」は、「学校づくり」の歴史的文脈とその意味の変遷について知る上でよいものである。ただ、1950年代の学校づくり実践の読み解きから、唐突に現在に飛び、学校づくり実践の課題は本質的に変わらず、個々の学級、教師からのスタートできるとして特集全体の結びとしているのは、やや無理があるように感じた。決して富樫論文の内容が悪いというわけではない。論考の配置に一工夫できなかったかということである。
この点、現在の七つの「学校づくり」実践についての久冨善之読み解きが、現在の「学校づくり」実践の展開の意義を分析するより本格的な論考として、富樫論考と(もちろん七つの学校づくりと)響き合いながら、特集の最後に来てもよかったのではないかと感じた。
富樫論文43頁の岬小学校での親との「やくそく」に込められた精神の素晴らしさを感じる。「1 子どもの言うことを終わりまで聞こう 2 子どもの話を横取りすまい。(他人の言うことを終りまで聞こう、横取り、早合点をすまい)」。いま、この精神をどのように継承していくか?
その試みを、千田実さんの取組み(「学校は協同と可能性を試す場所」)と、7つの「それぞれの教育実践・さまざまな学校づくり」実践から読み取ることができた。
学校における生活の隅々にまで及ぶ決まりごとの網目、社会・家庭における格差や貧困がもたらす困難を背負う子どもたちなど、息苦しさを増す学校現場において、「困難に屈することのないねばり・感性・誠実さ」(久冨38頁)を、実践記録を寄せた7名の教師たちから感じることができました。
特集2の境野・細金論考(「原発災害6年と学校・教育の課題」)では、避難先で再開された小学校で、子どもの学びに必要な「計画を変更しても行える学校経営の柔軟性」、「子どものこと、教材のことを語る時間」の多さ(66頁)が実現しているという状況を知ることができる。
絶対的な困難を抱える学校に、「災害ユートピア」状況が間隙のように生じ、そこでかろうじて実現している「学校づくり」の営み・・・そうした状況がいつまで続くのかを不安に感じつつも、被災地ではない全国の多くの学校で進んでいる「ディストピア化」とをつい対比してしまう。何という皮肉、いや簡単には語れないもどかしさ・・・様々な思いがよぎる。
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