10月の読者会は、特集1「ねらわれる幼児期、子育ての不安」から竹石聖子さんの「『10の姿』に奪われる子ども期-新要領・指針の意図」と、清水玲子さんの「『できる・できない』を超えて」を読み合いました。
読書会に参加している現職の先生たちはみな小学校以上の先生たち。幼児教育をテーマとした今号は、今の子どもたちを取り巻く状況の変化や、その背景のもとで営まれている幼児教育の実態や課題を知り考えるよい機会となりました。
竹石さんは、子どもを取り巻く状況の変化として、子どもたちの群れて遊ぶ「子ども文化」が消えたと述べ、4歳で子どもに習い事をさせている家庭は8割、人気の習い事は1位水泳、2位学習塾、3位ピアノ、4位英語、さらに週3日以上通わせている家庭は35%だというある調査結果を示した。また、そのような状況を反映してか、幼児期の教育も親の意向などを考慮し「英語」や「体育」など外部講師による取り組みを目玉にする園も現れているという。
また、保育所保育指針や幼稚園教育要領、認定こども園教育・保育要領が変わり、「資質・能力の三つの柱」や「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」などが打ち出されることによって、それの受けとめ方と対応をめぐり幼児教育の現場には混乱が見られるとともに、幼児期の教育・保育が、小学校就学前の準備教育的なものへと転換し、これまで大切にしてきた子ども一人ひとりの成長に寄り添った保育や教育が変質してしまうのではないかという危惧を持つという。
一方、清水さんは、保育園の園長さんが職場実習に来た中学生が途中で苦しくなってウソをつき逃げ出してしまった事実に、今の中学生の置かれている現実と今日の教育と保育の課題をみようとする話や、嫌いなものをがんばって食べた子をよかれと褒めたことがその子を逆に追いつめてしまった事例などを引きながら、タイトルにある子どもの「できる、できない」を超えて子どもの側に立つ保育の大切さと難しさ、子ども理解を深めることの必要性が述べられた。
読書会での話し合いを踏まえての感想となるが、竹石さんはヘックマンの「幼児教育の経済学」をもとに、幼児教育の質によって将来の社会的リスクが減少すること、非認知的能力の発達が大人になってからの社会的スキルにつながることなどを上げて、幼児期に独自の教育の重要性が改めて指摘されたというが、それにもとづく「質の高い教育」とは具体にどのようなものなのだろうか。今ひとつ見えるようで見えてこない。ない物ねだりかもしれないが、もう少し明らかにしてくれるとよいのになあと思った。
また清水さんの「できること、できない」を超えてということで言いたいことはわかるが、多くの取り組みや活動は教育的意図を持って取り組まれることが多い。その際「できるようになってほしい」「わかるようになってほしい」と教師が思うのは、自然だし当然ではないだろうか。清水さんも単純に「できること、できないこと」をどうでもいいとは思っていないだろうが、それゆえに個々の子どもに寄り添いながらの、その見極めをするというのは本当に難しいなあとも思った。
また直接的に言及はされてないが、竹石さんは子どもたちが群れて遊ぶ独自の「子ども文化」が消えたことと関わって、幼児教育現場に見られる子どもたちの自然・偶然的に生じる出来事や遊びの大切さを指摘しているように思う。そして、そのことは清水さんの「できる、できない」を超えての子ども理解を鍛えることと実は相通じているだろうとも感じた。
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