年月日 | : | 2012/4/2 |
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投稿者 | : | くまがいさん |
2011年3月11日から1年過ぎた。今。
2011年3月11日、金曜日。
その日から1年目、2012年3月11日の今日は日曜日。
1年の過ぎるのがとても速かったように感じている。
TVは朝から夜まで東日本大震災関係の放送が続く。
被災地では被害者への追悼行事、忘れないための被災地ウオーキング、再び犠牲者を出さないための避難訓練などが行われている。
福島の被災者は町へも入れないまま、避難地での行事となっている。
津波だけの被災地なら、もとの場所に立ち思いを巡らすこともできる。
震災に加えて福島原発の被害者たちはそれすらできない状況を強いられている。
帰れない、帰ることができないのではないかという思い、諦めすら心を占め始めているかもしれない。
いつまでも甘えていられないという言葉、前に進むしかないという言葉の裏側にある大きな喪失感、虚脱感。
そのことを「分かる」と言ってしまえるか。
生き続けていくためには何かを始めなければならないことはその通りなのだが。
多分、誰もが震災直後より、心が重くなってきている。
TVを見ながら2011,3,11からのことを思い起こしていた。
私の実家のある気仙沼本吉の日門地区は、津波被害を受けた所と被害の無かったところとではその後の暮らしは大違いだった。
被災しなかった人は、被災者にどう声をかけていいのか分からないとの思いもあったようで、支援の動きも緩慢だった。
水を供給してくれたのは天理市から来た皆さんだった。
岩手の千厩に拠点を構え、人員交代しながら6月末に水道が使えるようになるまで、毎日元気な声をかけてくれながら給水車で来てくれた。
遠くからボランテイア作業に駆けつけてくれた人たちの気持ちがありがたかった。
その頃には、電話線を復旧するための電信柱も建て始められていた。
流された気仙沼線の線路を海岸から引き揚げ切断して片付ける作業も始まった。
しかし壊れた家々の殆どは放置されたままだった。
コスモスが咲き始めたころにはそれらの家々も大分片付いてきていた。
今、気仙沼の国道45号線沿いは、破壊された建築物の瓦礫となった残骸はずいぶん片付いた。
集積場となった海側のもとは田畑だった土地に積まれた瓦礫はその高さを増し続けている。
幹線道路はほとんど修復された。
物流も回復し往来する車の量も、時に渋滞するほどに多い。
田畑の除塩、復旧、光回線用の電話線の工事。
道路工事。家屋の取り壊し、修復が続いている。
子どもたちが学校通う道の工事もやっと始まった。
日門漁港近くでも、2月初めから天が沢(硯川)沿いの農地の整備事業が進んでいる。
何台ものブルドーザーが津波に洗われた土地の表土を剥ぎとる音が続いている。
農地に続く山林の山肌も削られ波をかぶった樹木が切り倒され、薄茶色の新しい土が現われている。
造成されたばかりの住宅地のような、更地となったその土地の以前の姿はもう見えない。
除塩作業ということだ。
ここまでする必要があるのだろうか。
先にするべきことが別にあるように思える。
海水がすぐに引いた土地なら除塩は必要がないという声もあった。
津波の後、駄目でもともとと稲を育てた農家は以前とほとんど変わらぬ米を収穫できたということだ。
除去した土の行先はどこなのか。
瓦礫集積場の土の山を高くしているのか。
この土の中に放射性物質があるのかないのか。
船が手に入り漁を始めた人もいる。
海は大丈夫なのか。
今年、田畑に作物を作っていいのか。
知りたいことが山ほどもある。
次々に出てくる。
昨年の6月、静岡の知人からのメールにこんな返信を送っていた。
口を開けば愚痴になる、それもつらいので、今日できることを、今日、しようと思ったことを、とにかくやりとげる。汗をかいて今日も頑張って終わったと、自分で確認、納得する。それが一番かな。とにかく、体力を維持し、毎日、今日することがあってそれをやりとげていく。それが、未来を思うこと、希望につながるのかなと思う日々です。地震、津波、放射能、おまけにヒ素の流出。踏んだりけったりの被災地ですが、地元の人たちは、なぜか明るく強いのです。何なのでしょう。
この言葉は、今振り返ると強がりだ。地元は必ずしも明るくない。今日を生きるのに精いっぱいだ。笑顔はある。不安を語ってもしょうがないからだ。
夜になると復旧した国道45号線の信号だけが、無暗に明るい光を放って輝いている。
海岸部に車で行けるようになってから1年間、仙台と気仙沼を行き来して繰り返し見てきた被災地の景色に、生活する人々の未来はなかなか見えない。
「なんとかしてくれ!」「こんなんじゃだめだ!」とどこに向けて言ったらいいのか。
苛立つ思いにとらわれながら震災2年目の始まりの一日を過ごした。