9月の会では、『江戸の読書会—会読の思想史』をテキストに、江戸期の教育について学習していきました。
そもそも「会読」という言葉自体が今日ではほとんど知られなく(死語)なっているのではないでしょうか。私たちが時代劇でよく目にする場面といえば、藩主とか家長を前に座した子弟が論語などを声に出して読んでいる光景です。それは、「素読」(先生の読むとおりにテキストを声に出して棒読みにする)という教授法になりますが、江戸時代には他に先生(会頭とか塾頭など)がテキストの意味を詳細に解説する「講釈」、そしてテキストをもとに出席者が自由に討論する「会読」という教授法がありました。その中でも会読は、もっとも重視された教授法でした。
会読は、身分制度の厳しかった江戸時代において、学問の実力だけが試される場であり、対等に議論することのできる自由な場でした。ただし、やはり身分制の厳しい時代ゆえの制約ということになるでしょうか、政治の議論は厳禁でした。
会読は、伊藤仁斎や荻生徂徠などの漢学者によって始まったものでしたが、その有効性が認識されるようになり、次第に蘭学や国学へも広がり、江戸時代の中心的な学習法として定着していきました。
しかし19世紀に入り藩財政の破綻や武士や百姓の困窮に対する藩政改革の一環として、優秀な人材の発掘・育成や登用などが切実な課題となる中で藩校の学制改革なども提起されるようになって行きました。身分制とは切り離された学びの空間(実力だけが試される純粋な一つの遊戯空間)としての会読の場は、次第に現実社会へと切り結ぶようになって行きました。すなわち、それは会読・学びの場の政治化を意味します。そのような中で、会読の場が、ときに政治的な結社へと変化していきました。幕末には吉田松陰や横井小楠などが会読の形を借りて子弟に政治教育を行い、こうした動きが明治維新へと繋がっていきました。さらに維新後の自由民権運動が時代の大きなうねりとなった背景に、民権運動の運動主体である結社が会読の結社であったことを指摘することができます。
このように江戸時代に重視され広まった会読という学びの方法は、明治5年の「学制」へと引き継がれ、新設された小学校に採用されていきました。先に挙げた会読の対等性の原理が、身分や立場を超えすべての国民(市民)へと押し広げられ実現したという点で、それは画期的な意義を持っています。学制が施行せれた頃は、実際に小学校でも会読が行われ、子どもたちの間で活発な討論がなされていました。
しかし会読のもつ対等性原理(平等原理)の徹底と普及、その学びを通じてのときに政治化の動きは、明治政府にとっては好ましからざることでした。そのため、大急ぎで欧米式の一斉教授法が採用され、生徒たちを試験で競わせるものになっていきました。つまり会読の持つ自発性は完全に失われ、「立身出世」のため、一人で机に向かってする苦役としての教育へと急速に変わっていったのです。今日、会読が忘れられ、ほとんど知られないのには、このような歴史的事情が色濃くかかわっていると言えるのです。
7月の会では、江戸期の教育事情について会読を中心に、当時の資料なども読み解きながら学習しました。
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