ゼミナールsirube5月例会
日時 | 2021年5月31日(月) 13:30~16:30 |
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会場 | みやぎ教育文化研究センター 会場の詳細はこちら |
参加費 | 無料 |
テキスト | 当日配布 |
内容 | 3月、4月はコロナの感染状況からお休みとしました。しばらくぶりとなりますが、2月の例会に引き続き『精神と情熱とに関する81章』や『幸福論』で知られるアランを取り上げます。アランはプロポという、いわゆるエッセイ形式のコラムによる文章群のみで、体系的に教育を論じた著書はありませんが、その中から彼の教育思想をひも解いていきたいと思います。 新型コロナウイルスの感染防止のため、健康不良の方は参加をお控えください。また参加の際には、手洗いマスク着用など感染防止にご協力ください。 |
前回の 様子 |
会では『アラン著作集7 教育論』(白水社)をもとに学習を進めた。 さて前置きはこのぐらいにして、アランの教育についての言説から受ける全体的印象は、指摘されている事実や内容は、それらの一面をとらえているとは思うが、それをもとに断定的にこうだと述べられると、その自信はどこから来るのだろうと感じる。頑固おやじが自分の自説や考えを息子・娘に押し付けてくるような、ある種の権威を感じる。よってアランの文章に即しながらも、偏見込み?の個人的感想を以下に述べる。 ◆アランは、子どもについて、子どもは大人が信じているほど子どもの喜びが好きではないという。そして「子どもは反省してみて、すぐに子どもの状態を拒否する。彼は大人のようにふるまいたいのである」という。ここでいう子どもの喜びとは遊戯(遊び)などだ。遊戯について「子どもを動かすものは遊戯を好む気持ちなどではない」とか、子どもは「遊戯が続くと必ず後悔と倦怠が生じてくる」と述べているからだ。子どもは《大人のようにふるまいたい》《後悔と倦怠》だって、それ本当? そんな思いが生じてくる。これまで読み進めてきた教育思想の多くは、子どもの遊びを子ども固有のものとして、その存在と役割を重視し論じてきていたのではないか。アランはそういう遊びを子どもは望んでいないというのだろうか。 ◆ではアランは、教育や大人(教師)の役割については、どう考えていただろうか。 ◆ほかに、学習のなかで興味を感じたり注目した点について。 「もっとも容易なのは、『この少年は利口ではない』という今なおあまりにもたびたび耳にするあのおおざっぱな判断でかたづけてしまうことだ。しかしこういうことは許されない。それどころか、われわれのもっている全精神とわれわれに可能な友愛の熱意のすべてを用いて、凍えている連中に生気を与えてやろうとはしないで、人間を獣類のなかへ追い返してしまうことは、それこそ人間に対する許すことのできない罪であり、本質的な不正である。教育の術が天才を啓発することしか目的としないのであれば、それは笑うべきことである。というのは、天才は最初の叫び声で飛び出してきて茨のやぶを突破してしまうからだ。しかし、いたるところで引っかかり、何ごとについても間違いばかりする連中、根気を失い自分の精神に絶望しがちな連中、助けてやらなければならないのはこの人たちなのである。」 |