6月の会は、新井白石を取り上げました。
1657年、新井白石は上総国藩主土屋利直の家臣新井正済の子として生まれる。幼少より学芸に非凡な才能を示し、藩主の土屋利直は白石のことを可愛がる。17歳で中江藤樹『翁問答』を読み儒学を志す。
20代、30代中頃までは不遇の時を過ごすが、1693年に甲府藩徳川綱豊(のちの六代将軍・徳川家宣)の侍講となり、1709年に徳川綱吉が亡くなると綱豊が六代将軍・家宣となり白石は幕府に登用され、500石の旗本となる。
一介の旗本が将軍の侍講として幕政に深く関与するのはたいへん異例なこと。将軍家宣は白石を大変信頼し、「正徳の治」と言われる白石の政策は、旧来の悪弊を正すものであったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」と考える幕閣とは齟齬をきたして軋轢を生じることにもなった。1712年、家宣の死により七代将軍・家継に仕えるが、次第に職務困難となる。1716年、八代将軍・吉宗のときに失脚する。
学習会では、新井白石が鎖国下の日本に宣教師として危険を冒してやってきたシドッチを捕らえ、直接尋問した時のことをもとに書き記した『西洋紀聞』、古今の用語全645語を20の巻に分け古今の意味、地域による言語の違い、外国語の影響などを論じた『東雅』、白石の宗教論と言える『鬼神論』、自伝の『折たく柴の記』からの抜粋資料を読み進めました。
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