今回は、「事故の哲学」でした。
一番興味深かったのは、「カタストロフィは回避できるのか」についての論争です。太田先生は、人間は不完全で、そのような不完全な人間が原発のような装置を造ったのだから、カタストロフィは起きてしまうかもしれないという立場でした。それに対して、M氏は、人間は不完全だからこそ、そこに教育の可能性があり、回避できるようになる、そうしていきたいという立場でした。
私は、M氏のように、教育の力に期待し、小学校の現場でも、原発のことや電力問題のこと、環境問題のことなどを積極的に学習内容にしてきました。しかし、周りの先生方は、教科書の内容をこなすだけで精一杯です。環境問題は教科書でも取り上げられるようになりましたが、原発のことは、全く触れられていません。ですから、私は悲観的です。学校教育が、地球や人類の課題を積極的に取り上げ、本当の意味で、子どもたちに学ばせ、どうしたらいいのかを考えさせて、行動を促していく、そして社会や企業に働きかけていくような教育の在り方を実現しない限り、無理だと思います。
これに似たような感じで、1月7日(日)の朝日新聞で、斎藤幸平氏と経済社会理論家のジェレミー・リフキン氏が対談していました。斎藤幸平氏は、経済や社会についての考え方を根本的に「脱成長」の視点に見直さない限り、温暖化を食い止められないと言っています。しかしジェレミー・リフキンさんは、成長戦略のまま技術革新に期待しているのです。
日本は、「不都合なことにたいして、それを知っていながら信じないという態度」です。原発の核廃棄物の処理も、このままではどこに捨てたらいいか分からないのですから、もうこれ以上造ったり稼働させたたりしてはいけないのに、それを知っているのに、将来の技術革新で何とかなるかもしれないという態度で、やり過ごしています。太田先生がおっしゃるとおり、これは、犯罪的だと思います。
参加のみなさんが、この問題「カタストロフィは回避できるのか」について、どう感じていらっしゃるのか、聞いてみたいところでした。
次に興味を持ったのが、「汚染」や「清浄」についてです。太田先生は、ここの記述はとても不十分だ、汚染論や清浄の哲学を考えなくてはならないとおっしゃっていらしたのも、とても面白いと思いました。
地球にとって、人間の存在が「汚染」をもたらしていると思います。放射性物質もそうですが、農薬や化学肥料などの化学物質もそうでしょう。工場からの廃液や煙もです。過剰に飼われている牛の糞尿やゲップからでるガスも。しかしこれらは、人体にとって害だというだけで、実はすべて地球から生まれているので、人間がいなくなったら、すべて自然に返る物なのでしょうか。とすると、人間を基準に考えない場合の地球にとっての「汚染」とは何なのか、分からなくなってくると思いました。
太田先生がこの章の最後に、「われわれみずからが新しい時代へ移行しなければ、・・・」と書いていらっしゃいます。私はそれは、斎藤幸平さんが言うような、「脱成長」の時代だと思うのですが、みなさんは、どう思われるのでしょう。取り返しの付かない事故を起こす前に、新しい時代に移行したいものです。
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