今回は、第4講「2 近代技術の本質」で、13人もの参加がありました
技術の「発展」とか「進歩」という概念は、今ではごく当たり前で、とても価値のあるものとして、私たちは認識していますが、この概念は、科学技術が与えたもので、明治以前の日本社会には存在しなかったというのが、大きな驚きでした。ということは、明治以前は、人々の間に世の中を発展させようとか、進歩していこうという意識は、なかったということなのでしょうか?人々はどういう意識だったのか、ちょっと想像がつかなくて、不思議な感じです。
しかし、科学技術至上主義は、人間はいつも知の最前線を行かなければならないという最先端主義になり、進化を止められなくなってしまうのです。委細構わず進もうとするのが科学技術の論理、古いものは見捨てられる運命、躊躇をしていれば進むことはできない、人は利便の前に危険を忘れる、大きなうねりのようなリスクに対しては何もこれを止めるものはない・・・まさしくそうだなあと思わされることばかりでした。
ハイデガーの技術論も度肝を抜くものでしたが、太田先生によると、これは20世紀の技術について述べたもので、今の技術はこのハイデガーの理論では、到底間に合わないとおっしゃっていました。
この後、アメリカのR・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン コンピューターが人類の知性を超えるとき」について説明されたのですが、それはまるで、SFの世界でした。特異点以降の生命は、今世紀の末には、今の人間の数兆倍の数兆倍以上の能力を持つ知能体になるというのです。最終的には、非生物的なものになるというのですが、しかし、それでも人間の文明は尊重され、 今日にもまして、人間的と見なされるものをより典型的に示すというのです。手塚治虫の鉄腕アトムの感じでしょうか。私は今世紀末までは生きられないので、見ることができません。せいぜい30年後まででしょうが、そこまででも、どうなっているのか、楽しみなような、怖いような感じです。
特に、ナノボットという極小さいロボットの出現で、人間の血管の中に、ロボットが入り込んで行くようです。これは、私が小さい時にテレビで見ていた「ミクロの決死圏」のイメージでしょうか。
その中で今回私が希望を持ったのが、「技術暴走と制御の可能性」という章です。そこに、「未来に向かう人間の運命は、誰によって考えられ、何に依拠して選択がなされるべきなのか。・・・それは、人間の叡智(良識)によって。そして、そのような叡智を持つ人間は、どこにでもいるわれわれなのだ。われわれ自身のなかにある不自然なことに対する不快感と違和感、生命の流れに合致するものに向かったときの充足感、そして存在にたいする畏敬、これらこそが技術を凌ぐ人間の資質である。この資質を覚醒させること、そして現代社会の是正のために発揮させること、このことが未来の人間たちへの第一の橋となるであろう。」と書かれていました。専門家ではない私たちが、技術の暴走を止めるしかなく、そして、止めることが可能だというのです。感性を研ぎ澄まし、不快感や違和感をそのままにせず、「それは違う」と発信していかなければならないのでしょう。
そして、科学技術についても、医療と同じように、それに携わるものに「インフォームド・コンセント」を行う義務が課せられなければならないと、太田先生は提案しています。とても興味深い提案です。まだまだ世の中にこの考えは知られていないので、広めていきたいと思いました。
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