3月号の特集1「『人を育てる地域』をつくる」からは、岡幸江論文「『人の一生を育てる伝承』にみる、応答の知」、特集2「検証アニメ/マンガの想像力」からは、河野真太郎論文「『ズートピア』、多文化主義、成長」を中心に読み合いました。
特集1の岡さんの論考は、「人が『なぜ』を宿し応答する力を育む環境」を損なっている「近年のグローバル化・情報化」(49頁)に対して、「人の一生を育てる伝承の意味体系」(43頁)を見直そうとする観点から、阿部ヤヱさんの語りの世界の読み解きが行われています。
「子守唄」が子どもをあやすものであることは日常的に知られていますが、「遊び唄」、「はやし唄」、「呼びかけの唄」などと並んで、成長段階に応じた意味づけをもつものであることを知りました(45頁)。「人と向き合う」学びが段階的に促進されていたことも興味深いです。
いっぽうで、そのような「伝承の意味体系」が見いだされた、安定的で循環(サイクル)的な文化に根ざす「地域」は、もはやどこにもないのではないか。民衆知の体系を称揚するだけでは、そうした体系に付き纏っていたかつての共同体社会の封建的性格をも是認することにはならないかという点は疑問が残りました。
西洋古典音楽に日本の詩を乗せた子守唄を聞かされた記憶があると語って下さった方もいました。
また、岡さんが伝承の意味体系を見出したような地域をそのまま掘り起こすことは不可能ではあるが、都会のなかにもある地域性、地域のつながりの掘り起こしの試み(中塚さん論考)や、子育てという営みをきっかけとした地域とのつながり、地域づくりの可能性の提起(若原幸範さん論考)もあります。
特集2の河野論文からは、『ズートピア』はもちろん、かつて観た『羊たちの沈黙』について、自身のそれとは異なる見方ができることを感じました。
福祉国家下におけるメリトクラシーは基本的に評価し、それが新自由主義化によって変質したという見解(67頁)をすべて共有してよいのか。クラリスの「福祉国家的なメリトクラシー」から、ジュディの「メリトクラティックな多文化主義」という整理も大胆ながら、他の読み方もできそうな気もします。
このあたりは私ももう少し突き詰めて考えてみたいところですが、「現代的な成長の観念においては、『誰でも何にでもなれる』は自由の表現というよりは、アクティブにアイデンティティを選択できることこそが正しい主体のあり方だという、命令になっていることだ」(69頁)という指摘は正鵠を射ています。
近代社会は、「自己」をモニタリングし、語り、意味づけ、社会的に位置づける/られる過程を不断に辿ることをよくも悪くも要請する社会ですが、構造的な不平等のもとでの格差・貧困を正当化する政策と経済構造のなかで、価値ある「自己」を見出し、評価されることが「命令」になっていると思います。
さっと読み飛ばしてしまったページもあるのですが、読む会から帰ってきてから読み返すといろいろと新たな論点が見えてきます。
楽しい会になったと思います。(本田 記)
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