今回は、『教育』7月号の特集1「学校に人も、予算も」の山﨑洋介論文(「『学校ブラック化』の背景にあるマンプアー政策」)と、世取山洋介論文(「教育の『無償性』と『無償化』」)を輪読しながら議論しました。
山﨑論文は、実学級数が増加しているにもかかわらず、教職員数は増加を抑制され、給与費は国・地方レベルのいすれにおいても大幅削減され続けていることをデータで明快に示しています。
「ただ単純に『少人数学級実現』を国・自治体に求めるだけでは、学校に人と予算を増やすことはできない」(17頁)という提起は重要です。義務教育費国庫負担制度の改善・拡充はもちろん、「国の学校制度整備義務」(世取山論文44頁)履行を迫っていく必要があります。
ちなみに、山﨑論文の資料2(15頁)に関わっていえば、宮城県は「教職員実数」が「標準定数」を下回る都道府県の一つです・・・。
世取山論文は現政権が進めようとしている教育の「無償化」(pp.46-49)は「国の学校制度整備義務」を放棄し、教育の需給を民間の市場原理に委ねるものだと批判しています。そして、累進課税制度を通して「富裕者の手に集中している社会的に産出された富」(51頁)を回収し、学校制度整備の財源を確保すべきとしています。確かにその通りだと思います。
「現物」給付を国が保障する責任がなくなれば、教育の質管理も保証されなくなります。この点は、鈴木大裕論文(「先生が先生であるために―『教員の働き方改革』と教師としての幸せ」)も指摘しています。
なお、参加の教育学者からは、世取山さんが「無償性実現否定説」(50頁)に対して「新自由主義賛成論者と変わるところはない」と厳しく批判している背景には、憲法学の支配的流れに対するスタンスも関わっているのではないかという読み解きも示されました。
憲法学は、概して無償性については距離をとっている。それは、教育条件の整備への国家介入の強まりにつながるためで、授業料無償にとどめておくべきだという見解が強く、学問の自由に関しても大学を基本に考えている。そうしたスタンスに対して、世取山さんは強い不満を感じているのかもしれないというものでした。
この点は、宮澤孝子論文(「学校基準法案と学校財政法要綱案の現代的意義」)で、もっぱら「『金の面』だけで教育財政制度を確立させようとすること」の不十分さ(41頁)が指摘されていることにも関わります。
さいごに、教育条件については「学校に人も、予算も」という課題に集約されるのでしょうが、それは「教師としての仕事がしたい」(大瀬良篤論文)という思い、「教員が何を大切に思い、どこを削ってほしいと考えているか」(石原恵理論文、25頁)に即して考えられ、実現されていかなければならないという思いを強くもちました。(文責:本田伊克)
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