1月の読者会は、特集1「書く・描く・語る 表現のある教室」から(1)片岡洋子さんの「書きことばと感情表現」と、(2)佐貫浩さんの「新自由主義空間における表現の意味」を読み合いました。
片岡さんは、日本作文の会の活動に目を配りながら、2002年度施行の小学校国語・学習指導要領から「経験したことや生活を綴る作文指導」が抜ける一方、「書くこと」の取り組みが、実用的「伝達」の手段としてのみ位置づけられるようになったと言う。その上で「書く」とは如何なる特性を持つ活動なのかをW・J・オングの「声の文化」と「文字の文化」などに依拠しながら、生活綴方教育が大事にしてきた「生活をありのままに綴る」取り組みの必要性を指摘した。
話し合いの中では、「話すこと」と「書くこと」の関係性が話題になった。ことばによる表現の根底にある①「声としてのことば」「声の文化」による思考に目を向けることと、②「書くことは、注意深く項目化される内省へと向かい、たましいの内的状態とそこで内向的に構造化されている継起的関係に対する入念な分析へと向かう傾向」へと方向付けることとの関係性をどう問うのか?
②がともすれば、形式的な表現指導に陥ってしまう危険はないのかという点に対して懸念も出された。
佐貫論文については、「新自由主義空間における表現」として、「個の側から価値を立ち上げる主体的表現」(44頁)、「プライベートな個の真実をパブリックな価値と共感へ」(48頁)、「自己のプライベートな真実を、普遍的な権利の問題に包み込んで、思想という形で公共的な空間に提起する」(49頁)ということを打ち出している。
しかし、これはやや理性的すぎないか。もう少し手前(?)の段階があるのではないか。「プライベートな個の真実をパブリックな価値と共感へ」という方向性で、「異質性を排除し、社会を分断させる」表現を誘う力学にどう対抗するか。
たとえば、自身とは別の人やものの立場、見解であるとしながら、自らのことを語っている場合に、それをどう聴き取り、応答するかなどについて考えられそうにも思えた。議論を聞いてそんなことも考えた。
そういう観点から、山﨑隆夫さんの論文(「聴く、聴き合う授業で広がる子どもの世界」)も関連づけて読めるかと思う。
なお川地亜弥子論文の、「子どもは書きたいから書くのであり、そしてそれをていねいに読む人がいるからまた表現する」のであり、「そうした表現への要求と切り離して、『学力』伸長の道具とすることは表現の自由の保障という点から受け入れがたい」(10ページ)という指摘はその通りだと思った。
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