3月の読む会では、第1特集「教科学習の可能性」のなかから、本田伊克論文「わたしたちの『教科論』へ―意味の空洞化を超えて」と、亘理陽一論文「対話実践的に英語を学ぶ」を中心に購読し、議論しました。
今回は自身(本田)が書いたものということもあり、感想というよりは、議論を通してさらなる課題がみえたということになる。
全体として、現在の「コンピテンシー」概念にもとづく教育課程再編によって、教科学習の「意味の空洞化」が進んでいるという筋である。
では、「教科がもっている教育的な価値・内容」が毀損されている(p.12)というとき、その「価値・内容」とは教科が成立し、今日に至るまでの流れのどこに見出すことができるのか、どう創造していけるのか。次に、この点を論じる必要があると思います。
というのも、そもそも教科はそのときどきの社会の支配層と統治機構にとって、地域社会や国民国家を維持・発展させるための手段としての性格をもともともっているからです。だから、受験競争による「序列主義」に汚染されている点(p.8)を差し引いても、多くの子どもを「抽象的な帰属状態」におく性格(同上)をもともともって成立している経緯があるからです。
いっぽうで、教科として科学・文化・芸術は広範な国民層に教えられるようになることは、多くの人々が学問の「感化力」(p.10)の恩恵を受ける機会をも開きました。さらに、教師が子どもに教えるということは、子どもにとって学ぶ価値のある内容はいったいなんなのか? それをわかち伝えることが可能なように組織化するとはどのようなことなのか?(p.9) こうした問いが、教育実践において必然的に生じ、教師はそれに応答する「過程」のなかに、教科を学ぶ意義、目的をめぐる議論が豊かに切り拓かれていくとも思います。さらに、教科論を展開していきたいです。
亘理論文の「対話実践的外国語科観」(p.21)という視座からは、社会の即物的な必要性を安易に外国語科の目的とすることを避け、「外国語の学習を通じて自己(認識)、他者へのまなざし・向き合い方、ことばの見方考え方・使い方のそれぞれに変容がもたらされる」(p.21)ことを目指すべきだということを教わりました。
宮城の優れた実践家も論考を寄せてくれました。
林和人さんは「思考の方法-文化としての算数・数学の魅力」と題する論文のなかで、宮城で取り組んだ「円の面積」から入って「円周率」を扱うプランを紹介しています。
特集2「道徳の授業をつくる」には、岡崎太郎さんも執筆しています。「弱きもの、弱きこころに向き合う」ことを大切にした授業実践について紹介されています。「学ぶ権利」の実現がどの程度果たされているのかをリアリティに即して考え合う授業です。道徳教育はいったい何のために行うものであるのか、考えさせられます。(本田伊克)
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