12月の読む会は、特集2の「学校にしのびこむ『黙』」の山本宏樹氏の「無言清掃はどこからきたのか」から、読むことになった。無言清掃が広がっている背景について知りたいという問題意識が共有されたからである。
参加したメンバーの出身地が、埼玉・千葉・宮城・岩手とそれぞれであり、また、勤務した校種も、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・支援学校と揃っていたこともあり、自分が教師として、または生徒として体験したことの情報交換をするだけでも、新たな情報を手に入れることのできる貴重な機会となった。
宮城県内でも、小中学校に、様々な形で「無言清掃」「黙働清掃」が広がっている。今私が、病休代替講師として勤務している中学校でも、第2学年で実施していた週1回の無言清掃を、生徒会役員の子が「自主的」に全校の活動にしようと提案し実施され、校長もその自主性を高く評価している。
確かに、無言清掃には、効率的に清掃が進められ、子どもの集中力を高め、いじめられがちな一部の子どもにとっては救いともなっているといったメリットがあるのは確かであろう。しかし、どう言おうが、無言清掃には、教師の強制力が働くことなしに、行われることがないことは、否定できないと思う。それなのに、日教組教研の助言者を務めた大阪大学の志水宏吉氏ら、リベラル?な研究者が無言清掃を高く評価していることに、個人的には、納得がいかない。
子どもに清掃をさせることは、「自分で使った場所は自分できれいにする活動」ということで、国際的に高く評価され始めているし、そもそも「清掃をしてきれいにする」ということ自体が否定し難い価値を持っている。また、労働の中で清掃は、どこの社会でも低階層に位置付けられていることが多いので、特にエリートとなる階層の子どもには、体験させる必要があるということも、話題となった。しかし、山本氏の文章の中で引用されている子ども達の作文を読むと、「いい子」ほど教師の価値観を自分の中で内面化していることが如実に示されており、それは、愛国心を内面化し、積極的に戦争協力していった戦前・戦時中の子どもたちと共通するという問題意識は、出席者の間で共有されたと思う。
また、今は「黙」は清掃だけでなく、朝読書や給食弁当まで広がっていることも話題となった。最後に、特集1の「追いつめる社会に抗い、育む」の中の、不登校経験を持つ高校生、高田航さんの「行きたいと思える学校に」の現在の学校のあり方に対する苦言を読みあって、会を終了した。
新たに参加されるようになった参加者の方々からの積極的な発言のお陰で活発な会になった。
(大木)
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