7月の様子と感想を、ありがたいことに二人の方からお寄せいただきましたので、そのまま紹介します。
7月は、特集1「ナショナリズムと歴史と教育と」のうち、佐藤和夫論文「ナショナリズムを乗り越える」を輪読し、特集2「もう一つの教育をもとめて」との関連も読み解きながら議論しました。
佐藤和夫さんは、「ナショナリズムと能力主義を越える道」(10頁)として、二つの方向転換の道を探っています。一つは、「学校教育を軸に進められてきた資本主義的競争人材を育てるための能力主義を乗り越える道」(11頁)であり、いま一つは「一人の人間が人間たり得るのは、他の人がいるからだ」という原理(「ウブントゥ」)(12頁)です。
佐藤さんが模索するこの二つの方向性を先駆的に追求しているのが、特集2で紹介されている、イエナプラン実践であり、きのくに子どもの村学園の教育であり、箕面子どもの森学園の教育です。森岡次郎さん(「『多様な学び』の『多様性』をめぐって」)は、こうしたオルタナティブ教育を行う学校の取組みが林立する社会ではなく、「既存の(公立の)学校の内部こそが、多様化されなければならない」(89頁)と述べています。
議論のなかでは、次のような考えも出されました。
●「能力主義」それ自体を批判すべきか、それとも、差別につながるような能力主義のあり方を批判すべきかということは、「ナショナリズムが能力主義に依存している」側面もあるのではないかという点も含め、根本的に考える必要があるのではないか。
● 植松聖や加藤智大が「中の下」(8頁)であったということは、今日いかなる意味をもつのか。能力による差別の中で、もはや「この世界に自分の存在を輝かせること」(同上)がかなわないことを痛感させられているということか。
●「勉強ができないと幸せでないのか」と考えさせられた。同時に、労働市場や職種がどうなっていくか不透明ななかで、とりあえず普通科高校を選択する現実もあるだろう。学校教育が「子どもがこの世界で自分ならではの力、能力を発見し学ぶ場所」(12頁)でもあることはそのとおりであるが、現在の地域の中で佐藤さんがいう「現実的な生活能力」が発揮されたり、そのことが評価されることがどれだけあるのだろうか。
● 第2特集で紹介された学校のように、ものづくりや体験的な活動が、既存の学校でますますやりにくくなっていることをどう考えたらよいか。
8月号に続く内容も含まれていましたので、つなげて読んでいきたいとも思いました。(本田)
『教育』7月号の読む会では、特集1の佐藤論文の読み取りから議論を行った。なかでも、「ナショナリズムと能力主義を越える」ということについて考えた。「現実的な生活能力」が重要であることに疑いはないが、 「現実的な生活能力」 を身に付けるとしても、現在、確立している市場経済との関係でどこまで自由になることができるかは更なる検討の余地がある。現在でも、「特色ある」教育として 「現実的な生活能力」に着目されることはあるが、それもまだ、「汎用的な能力」として学歴や態度に収れんしてしまうことが少なくないだろう。 そのためには、 「現実的な生活能力」が活きてくるような市場経済からの依存を減らした社会像考える必要があるのだろう。
また、他者との関係は、他者を受け入れることと「無関心」とが表裏一体になるような状況も現実に見られる。そうではなく、積極的に他者を受け入れる、そして、自分も他者に受け入れられるよう安心感こそ必要で、その延長線上に歪んだナショナリズムや歴史教育から自らを解放することがあるのではないだろうか。そんな教育を考えたいと思った。(山沢)
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