7月は、デューイの著書『民主主義と教育』の資料をもとに読み進めた。その中から、デューイの教育思想の主な考えについて抜萃資料をもとにいくつか記す。
1)デューイの念頭にあるのは、民主的な社会の形成に寄与する教育のあり方だ。そこで彼が注視するのは、人々に共通に分かちもたれるもの、すなわち目標、信仰、抱負、知識(共通理解)などであり、デューイはそれを形成し人々に共通の心を育むのがコミュニケーションだという。また、そこに社会が形成されるのだともいう。社会とコミュニケーションは不即不離の存在だ。またコミュニケーションを通じて人は感化され自身の態度を修正する。ゆえに、あらゆるコミュニケーションは教育的であるという。
2)教育的過程において重要なことは、環境によって間接的に教育することだと説く。したがって学校の任務は、第一に、単純化された環境を提供し、次第に複雑なものに組織すること。第二に、社会のつまらないものや邪悪なものを取り除き環境を純化すること。そうすることを通して学校は、子どもたちが「自分の生まれた社会集団の限界から脱出して、いっそう広い環境と活発に接触するようになる機会が得られるように配慮」しなければならないという。
3)デューイは、(成長)可能態としての子どもの特質に依存性と可塑性を挙げる。子どもが無力であり依存的であることは「生まれながらにして他人の協力的な心遣いをえる力を驚くほど持っている」ことを示しており、子どもの驚くべき「能力」であるという。成長は依存性によりながらなされると言えるだろう。
一方可塑性は、成長するための順応性を意味する。経験から学び修正する力、性向を発達させる力を意味する。「これがなくては『習慣の獲得』は不可能である」という。
4)デューイにとって「教育とは経験を絶え間なく再組織ないし改造すること」であり、「教育とは経験の意味を増加させ、その後の経験の進路を方向づける能力を高めるように経験を改造ないし再組織することである」という。教育によって子どもたちは、これまで気づかなかった諸関連に気づき、それ以後の行動を方向づけたり統制したりする力を増大させる。
5)デューイは、「民主主義は教育に熱意を持つ」という。なぜなら「民主的社会は外的権威に基づく原理を否認」し、それに代わる自発的な性向や関心を教育によって見出さなくてはならないからだ。
民主主義を志向する際の判断基準は「多様性」と「共同性」だ。デューイは、民主主義とは政治形態である以上に「共同生活の一様式」「連帯的な共同経験の一様式」だという。冒頭のコミュニケーションによる関心の共有が共同体としての社会を形成するなら、関心を共有する人々の数の増大と広がりは「階級的、民族的、国土的障壁を打ち壊す」。より拡大した共同と連帯を生み出し、またそのような人々の交流の拡大が人々の受ける刺激や関心を多様なものにしていく。
6)教育は、社会や国家とどのような関係、スタンスをとるのか。デューイは、第1次世界大戦へとなだれ込むヨーロッパ社会の混乱と戦禍、そのなかで教育が国家的利益の虜となっていったことを念頭に、「地理的な制限を超えて人々を協力的な人間の営為と成果において、結びつけるものは何でも強調しなければならない。全ての人々が互いに、より十分に、より自由に、より実り豊かに共同し、交渉するということに関しては、国家主権は副次的で暫定的なものでしかない」という。そして、そういう心構えを浸透させることが必要であるという。
7)教育における目的は、子どもが異なれば異なり、子どもが成長するにつれ、また教えるものの経験の増大につれて変わり、際限なく多種多様であるという。また『教育目的は教育されるべき特定の個人が本来持っている活動力と要求に基づいていなければならない」とする。しかし一般に大人たちは自分が大事だと思うものを子どもの能力とは関係なく画一的に設定する傾向がある。そういう目的は無価値であるという。
8)教養とは育成され、成熟したものである。また人格的なものであるという。したがって教養を身につけるには、学芸など様々な人間の関心事に関する修養が必要となり、また修養を積み教養を身につけた人間は、独特の性質と特異の人格を有し、社会に貢献する可能性(社会的に有意な能力)を有しているという。社会的に有意な能力とは、共有された共同の活動に、すなわち公共的な活動に自由に十分に参加する能力のことをいう。教育は、人格の育成と社会的に有意な能力の育成という二つの目的を分離してはならない、分離することは民主主義にとって致命的であるという。
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