太田先生作成のデューイ著『民主主義と教育』の抜粋資料をもとに引き続き読み進めました。そこでは教育的活動を成り立たせるには何が求められ大事にされなければならないのか(興味・思考)、またその過程の中で立ち現れ、育まれるものは何か(精神、知識・教養)、さらにそのようなデューイの求める教育活動を行う際に、学校が留意すべきこと(肉体的活動と知的活動の結合)などについてみていきました。
1)デューイは、教養とは育成され成熟したものであり、人格的なものであるという。また教養を身につけるには学芸など様々な人間の関心事に関する修養が必要で、教養を身につけた人間は独特の性質と特異の人格(個性)を有し、社会に貢献する可能性(社会的に有意な能力)を有しているという。彼は、これらの教養概念を鮮明にするために対立する語彙として「生ものや未熟なもの」、「平凡なもの平均的なもの」を上げる。
また社会的に有意な能力とは、共有された共同の活動に、すなわち公共的な活動に自由に十分に参加する能力のことだと述べ、教育は「人格の育成と社会的に有意な能力の育成」という二つの目的を分離してはならず、分離することは民主主義にとって致命的であるという。
太田先生は、このデューイの教養概念(生もの・未熟なもの、平凡・平均に対立する)に関わって、この教養概念の把握には近世イギリスに端を発しロックによって代表される労働投下説や、cultivate(耕す)の観念が関係していると説明された。
2)教育的営みとはどのようなものであるのか。デューイは、「語源的には間にあるもの—離れている二つのものを結びつけるもの—を意味する」興味interestという語に着目し説き起こす。彼は子どもの成長の、最初の段階(始点)と完成段階(終点)の二つの間には通過すべき過程、つまり「介在するものがある」という。そしてそれこそが興味interestだというのだ。したがって、ある目的(完成段階)にむけ取り組まれる教育活動は、子どもたちにとって興味あるものにしなければならないという。それゆえ学校や教師には、子どもにとって教材が興味あるものになるよう工夫し努力することが求められる。
今日の学校教育では、学習における子どもの「関心・意欲・態度」が子どもの評価として問われているが、上記デューイに寄るなら本末転倒であり、子どもたちに好ましい「関心・意欲・態度」を持たせることができているかどうか、学校や教師が問われ評価されなければならないのではないだろうか。
3)「精神」とは、行動が目的や目標に向けて知的に方向づけられている行動の過程につけられた名称だという。また精神に関わって「知性はある人が持っているその人特有の所有物ではない。けれども彼自身がその中である役割を果たしている活動が、今述べた性質を持っている限りで、その人は知的である」と述べ、知性が個人に内在するものでないとする。このことから推量するに、精神とは何ものにも侵されず左右されないものとして個人に自生的に内在するものではなく、行動の過程で繰り広げられる様々な他者や事象との相互作用のなかにおいて見出されるものであると言えよう。
4)多くの学校では、精神や意識は知的で認識力に関わるものであるが、肉体的活動器官は生徒を専念しなければならない課業から引き離し、生徒の意識を惑わし学習を妨げる邪魔ものと考えられている。よって学校では、無視されはけ口のない肉体は暴発し、馬鹿騒ぎをしたり悪戯をしたりすることになるという。このようにして、本来目標や目的に向かって心も体も密接に結びつき取り組むことが求められる教育が歪められ、「肉体的な力を自由に働かせてはならないという強制された義務を守る」ような教育がなされているという。
5)探求の過程であり、調査の過程である思考は「疑わしい状況のもとで生じる」、すなわち「なぜだろう、何だろう」という問いとともに始まる。また「習得することacquiringは、探求inquiringの活動に対しては常に二次的であり手段的である」という。
探求としての思考は、またつねに研究的であると言える。それは社会一般においてすでに解明され知られている事象や知識であったとしても、探求し研究している本人にとっては独創的なものなのだ。またすべての思考は、未知のものを探し求めるという点で冒険的であり、また危険を伴うものであると言える。
思考は最終的には知識となるが、その知識の価値は、未だ現在進行形の歩みを続けるこの世界にあって、それが未来へと向かう思考において用いられることによって決まる。しかし多くの人々にとっては、知識が探求の結果であり、さらに進んで探求の手段であるということは忘れさられ、知識の記録(言明や命題)そのものが知識(そこでの知識は情報と化してしまっている)であると考えられるようになってしまった。
そのため学校における教育課程は、「主としていろいろな部門の学科に区分された情報から成り立っており、各学科は全蓄積の諸部分を順次的な断片として示す教科へと細分化」されてしまっている。生徒に、ブルータスがシーザーを殺したとか、円周率は3.1415・・・であると教えるとき、確かに生徒は知識を受け取るが、それは知ること(思考すること)への刺激に過ぎない。それは大したことではない。デューイにとって大切なのは、生徒が伝えられたことに対してどのように反応するかである。
6)デューイに言わせれば、学習方法の永続的改善の唯一の正攻法は、「思考を必要とし、助長し、試すような状況」に、子どもを置くことである。したがって学習において思考を呼び起こすようにするには、読み書き計算や地理の学習などにおいても、学校の外での日常生活において熟慮を生じさせるような状況に生徒たちを置くことが必要であり、それらの方法は生徒たちに学ぶことではなく、なすべきことを教えるという。デューイは学校の仕事の大きな部分は、生徒に「問題を与えること、質問すること、作業を課すこと、より難しくすること」だという。
7)活動的作業の重要性について、デューイは学校の教育活動に探検したり、道具や材料で物を作ったり、喜びを表現したりする活動や作業が取り入れらることが必要である。そのことによって生徒は全身全霊を打ち込み、学校の内と外における生活の不自然さを縮小し、多種多様な材料や過程への注意に動機が与えられ、協力的共同活動が行われるようになるのだという。その際に、知識はそれらの活動を通じて獲得される副産物であるべきで、認識の最初の段階においては「いかにして物事をなすべきか」や活動において得られた事物や過程についての心得を学ぶことが肝要であるとする。
また作業と科学の方法との関係は密接であって、科学の進歩が遅れていた時代には演繹的方法によって知識を発展させようと努めていたが、17世紀以降は実験的方法が認識の公認の方法となり、したがって実験装置を自然の事物に向けて行われる活動的作業は、実験的方法のもっとも適当な入門法である。
8)活動的作業には遊びと仕事の両方が含まれる。しばしば両者は相反しているように思われるが、両者は目的を有し、その目的を実現するための材料と方法の選択と適用が含まれている。だから幼いころから遊び的活動だけの時期と仕事的活動の時期という区分はなく、強調の違いがあるだけ。仕事が遊びと異なるのは、仕事のかなり長い活動の過程が、結果についての観念によって引き起こされているという点においてである。
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