【中止のお知らせ】ゼミナールsirube3月例会は、コロナウイルスの感染拡大により中止といたします。
日時 |
2021年3月22日(月) 13:30~16:30 |
会場 |
みやぎ教育文化研究センター
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参加費 |
無料 |
テキスト |
当日配布の資料 |
内容 |
2月の例会に引き続き『精神と情熱とに関する81章』や『幸福論』で知られるアランを取り上げます。アランはプロポという、いわゆるエッセイ形式のコラムによる文章群のみで、体系的に教育を論じた著書はありませんが、その中から彼の教育思想をひも解いていきたいと思います。
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前回の 様子 |
会では『アラン著作集7 教育論』(白水社)をもとに学習を進めた。
アランはエスプリのひとりと言われる。ウィキペディアによれば「批評精神に富んだ軽妙洒脱で辛辣な言葉を当意即妙に述べる才」を持った人物ということになる。書かれたものの文意や主旨をつかまえたと思うと柳のごとくかわされるような、どこにアランの本心があるのか一筋縄ではわからない、ある種の軽やかさを感じる。軽やかさと言えば聞こえはいいが、それゆえ文意を追っかけるのは根気のいる読書ともなる。これがエスプリかどうかは、原文ではなく訳本を読んでいるのだから一概にそうとは言えない気もするが、以前に太田先生が「これがエスプリですよ」と言っていたから、こういうのがエスプリなのだろう。
さて前置きはこのぐらいにして、アランの教育についての言説から受ける全体的印象は、指摘されている事実や内容は、それらの一面をとらえているとは思うが、それをもとに断定的にこうだと述べられると、その自信はどこから来るのだろうと感じる。頑固おやじが自分の自説や考えを息子・娘に押し付けてくるような、ある種の権威を感じる。よってアランの文章に即しながらも、偏見込み?の個人的感想を以下に述べる。
◆アランは、子どもについて、子どもは大人が信じているほど子どもの喜びが好きではないという。そして「子どもは反省してみて、すぐに子どもの状態を拒否する。彼は大人のようにふるまいたいのである」という。ここでいう子どもの喜びとは遊戯(遊び)などだ。遊戯について「子どもを動かすものは遊戯を好む気持ちなどではない」とか、子どもは「遊戯が続くと必ず後悔と倦怠が生じてくる」と述べているからだ。子どもは《大人のようにふるまいたい》《後悔と倦怠》だって、それ本当? そんな思いが生じてくる。これまで読み進めてきた教育思想の多くは、子どもの遊びを子ども固有のものとして、その存在と役割を重視し論じてきていたのではないか。アランはそういう遊びを子どもは望んでいないというのだろうか。
一方でアランは、子どもは「遊戯の魅力に負けてしまう」ので、子どもたちは「遊びからぐいと引き離してもらいたい」と思っている。そして「これこそ子どもの意思の始まり」だとも指摘する。やっぱり、子どもは遊びを魅力的なものと感じているし、好きなのだ。こういう展開が一見アランのわかりずらさのように思うが、同時に哲学者としてのアランを感じもする。
ではエスプリであるアランは、何を言おうとしているのか。彼は、成長とは何かを語ろうとしているのだ。アランは言う「子どもは時々刻々とそんな気持ち(遊戯を好む気持ち)を脱ぎ捨てているからである。幼少期というものはすべて、前日まで自分がそうであった子どもの状態を忘れて過ぎ去ってゆくものである。成長とはこれ以外のことを意味しない。それで子どもは、もう子どもでないということ以外なにも望んでいない」というのである。子どものなかに遊びを通じて生じる二つの感情、遊びの魅力に魅せられ興じていたいという感情と、その中で生じる後悔と倦怠、この矛盾する感情を通じて、自己超脱すること。これが成長だと、アランは言うのだ。この矛盾した感情のなかで子どもは《遊びから引き離してくれ》という「意志の始まり」としての雄叫びをあげる。それにどう応えるかというところに、教育や大人の役割があることになるといえる。
◆ではアランは、教育や大人(教師)の役割については、どう考えていただろうか。
長くなるが、アランは次のように言っている。「子どもは何を望んでいるのか。そして人間は何を望んでいるのか。彼は困難なものをねらっているのであって、快適なものをねらっているのではない。そして、このような人間らしい態度を守りとおせなくなると、彼は誰かに助けをもらいたいと望む。彼は自分の背丈の届くところにある楽しみ以外の別の楽しみがあるのではないかと思う。そこで始めのうちは、楽しみのもっと違った光景を見わたせるところまで背伸びをしようとする。そして最後には、自分を引き上げてくれるのを望むのである」と。
アランによれば、子どもは遊びの魅力(誘惑)を感じながらも、今ある自分にも満足しない。そこで彼は誰かに助けてほしい、引き上げてほしいと思う。教育と大人の役割は、自己超脱のために「引き上げる」ことである。現状に甘んじることなく険しい山を登らせることだ。だから教育は、決して子どもにとって楽なものではない。「骨の折れるもの」であり、はじめは「退屈」であり、「労苦」を伴うものだという。
子どもはアランが思っているほどに大人になることを望んでいるのだろうか。以前は大人になることは子どもたちの憧れだったのかもしれないが、少なくとも今の子どもたちにとっては、決してそうだとは思えない。大人になんかなりたくないと思っている子どもたちの方が多いのではないだろうか。
◆ほかに、学習のなかで興味を感じたり注目した点について。
一つは、アランの学校観。彼は、学校とは、子どもたちにとって同類・同族を見出す場所であり、自然的なものなのだという。こういう視点からの学校への言及にアランの独自性を感じた。
二つに、そういう学校を含めた教育の必要性についてのアランの言及。今の個性重視の個別化教育が推進されるなかで、教育は誰のためにあるのかを考えるうえで重要な指摘をしていると感じた。以下、少々長い引用となるが、それを記して終わりにする。
「もっとも容易なのは、『この少年は利口ではない』という今なおあまりにもたびたび耳にするあのおおざっぱな判断でかたづけてしまうことだ。しかしこういうことは許されない。それどころか、われわれのもっている全精神とわれわれに可能な友愛の熱意のすべてを用いて、凍えている連中に生気を与えてやろうとはしないで、人間を獣類のなかへ追い返してしまうことは、それこそ人間に対する許すことのできない罪であり、本質的な不正である。教育の術が天才を啓発することしか目的としないのであれば、それは笑うべきことである。というのは、天才は最初の叫び声で飛び出してきて茨のやぶを突破してしまうからだ。しかし、いたるところで引っかかり、何ごとについても間違いばかりする連中、根気を失い自分の精神に絶望しがちな連中、助けてやらなければならないのはこの人たちなのである。」
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