前回に続き、『アラン著作集7 教育論』(白水社)を原典とし、太田先生が作成した資料をもとに学習しました。
今回は、資料の中からそのほんの一部に過ぎないのですが、読み・書き・算のうち「読むこと」と「書くこと」にを中心に要旨と感想を記しておきたいと思います。
アランは、「読むことができるということ、それはたんに字を知っていて、字の集まりを発音できる」ことではないと述べ、肝心なのは「読むことを学ぶこと、そして同時に考えることを学ぶことであり、しかも決して両者を互いに切り離さないことである」という。では、それはどうしたら可能になるというのだろう。
アランは言う。「それは速く読むこと、一目で句全体をさぐることである」といい、例えるなら、水夫が一目で貨物船なのか漁船なのか、それとも客船なのかを見分けるようになることだと。したがって、読むということは「全体をつかむ精神」をよびさまし、何が書かれているのかを「見抜く」ことだという。また、それは黙読によってなされなければならないともいう。そして自分が初等教育局長であったなら「唯一の目的としてすべてのフランス人に読むことを教えようと思う」と述べている。要は「木を見て森を見ず」ではいけないということだと思ったが、太田先生は「読むは直観」と述べた。
他方「考えること」に関わるが、アランは「書くこと」について、ある老教師の言をもちいながら、「読み方と書き方とが最も大切である」と指摘したうえで「身を入れて字を書く動作は本当の注意へと向かわせるものだ」とし、本当の注意というのは、「立ち戻ってきてはまた交叉するような思考、そう言ったものを必要とする」と述べている。さらに「考えている人というのは、自分の手でいわば空中に書いているのです。だが実際に書く方がもっと精神を立ち返らせてくれます」と述べ、腕組みをしてさも考えているような人がいるが、腕組みをすれば考えることができるわけではないと言う。
私ごとだが、私は読書をしていて自分の気に入った文面や箇所をノートに書き写すことに夢中になっていた時期がある。この頃はご無沙汰なのだが。そうしてノートに書いていると、読んでいるときには気がつかなかった語句が重要な意味を持って見えてきたり、気になり始めたりすることがよくあった。また書くことによって、書物にみなぎっているリズムや息づかいが感じられてもくる。それは、ときに心地よいものだが、また逆もある。なにか滑らかさに欠け、つっかえつっかえしながら書くようなことが。そうしながら、なんでこんな言い回しをするのだろう、なんでこんな書き方をするのだろうと考えるうちに見えてくるものがあったりもする。
私は書き写す、模写することについて自分が感じたことを述べたにすぎないが、アランは模写することに関して「創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ」と述べている。この頃、創意が湧かないのは、模倣するものが見出せていない今の私の現状にあるのか? などと反省してみたり・・・。
以上、ほんの学習会の一部にすぎませんが、「前回の様子」とします。
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