ゼミナールsirube6月例会

日時 2021年6月28日(月)
13:30~16:30
会場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 当日、配布
内容

5月に引き続き『精神と情熱とに関する81章』や『幸福論』で知られるアランを取り上げます。今回で3回目となります。
今回は、主に『アラン教育随筆』(論創社)からの作成資料をもとに彼の教育思想を読み解いていく予定です。

新型コロナウイルスの感染防止のため、健康不良の方は参加をお控えください。また参加の際には、手洗いマスク着用など感染防止にご協力ください。
感染状況によっては残念ながら中止とせざるを得ないこともあります。中止など変更の場合は、ホームページでお知らせいたしますので、事前にご確認くださいますよう、よろしくお願いいたします。

前回の
様子

前回に続き、『アラン著作集7 教育論』(白水社)を原典とし、太田先生が作成した資料をもとに学習しました。
今回は、資料の中からそのほんの一部に過ぎないのですが、読み・書き・算のうち「読むこと」と「書くこと」にを中心に要旨と感想を記しておきたいと思います。

アランは、「読むことができるということ、それはたんに字を知っていて、字の集まりを発音できる」ことではないと述べ、肝心なのは「読むことを学ぶこと、そして同時に考えることを学ぶことであり、しかも決して両者を互いに切り離さないことである」という。では、それはどうしたら可能になるというのだろう。
アランは言う。「それは速く読むこと、一目で句全体をさぐることである」といい、例えるなら、水夫が一目で貨物船なのか漁船なのか、それとも客船なのかを見分けるようになることだと。したがって、読むということは「全体をつかむ精神」をよびさまし、何が書かれているのかを「見抜く」ことだという。また、それは黙読によってなされなければならないともいう。そして自分が初等教育局長であったなら「唯一の目的としてすべてのフランス人に読むことを教えようと思う」と述べている。要は「木を見て森を見ず」ではいけないということだと思ったが、太田先生は「読むは直観」と述べた。

他方「考えること」に関わるが、アランは「書くこと」について、ある老教師の言をもちいながら、「読み方と書き方とが最も大切である」と指摘したうえで「身を入れて字を書く動作は本当の注意へと向かわせるものだ」とし、本当の注意というのは、「立ち戻ってきてはまた交叉するような思考、そう言ったものを必要とする」と述べている。さらに「考えている人というのは、自分の手でいわば空中に書いているのです。だが実際に書く方がもっと精神を立ち返らせてくれます」と述べ、腕組みをしてさも考えているような人がいるが、腕組みをすれば考えることができるわけではないと言う。
私ごとだが、私は読書をしていて自分の気に入った文面や箇所をノートに書き写すことに夢中になっていた時期がある。この頃はご無沙汰なのだが。そうしてノートに書いていると、読んでいるときには気がつかなかった語句が重要な意味を持って見えてきたり、気になり始めたりすることがよくあった。また書くことによって、書物にみなぎっているリズムや息づかいが感じられてもくる。それは、ときに心地よいものだが、また逆もある。なにか滑らかさに欠け、つっかえつっかえしながら書くようなことが。そうしながら、なんでこんな言い回しをするのだろう、なんでこんな書き方をするのだろうと考えるうちに見えてくるものがあったりもする。
私は書き写す、模写することについて自分が感じたことを述べたにすぎないが、アランは模写することに関して「創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ」と述べている。この頃、創意が湧かないのは、模倣するものが見出せていない今の私の現状にあるのか? などと反省してみたり・・・。

以上、ほんの学習会の一部にすぎませんが、「前回の様子」とします。