6月は、『アラン教育随筆』(論創社)から、太田先生が作成した独自資料をもとに読み進めました。以下は、その要約の一部です。
◆庭師が自分の理想の庭をつくるように、教育学者や教師も自分の理想の子どもたちをつくろうとし、自分の思うような子どもたちの様子を見ては満足する。そのようなことができたとしても、それは一時に過ぎない。庭師がいなくなった庭が、しばらくすると荒れ放題になるように子どもたちの野性もまた目覚めるという。既存の学校や教師のあり方に対するアラン一流の手厳しい指摘だ。
◆アランは、子ども向けに理解しづらいところを端折ったり、子どもがあっと驚くようなことをしたり言ったりして、面白おかしくすることを軽蔑する。彼は、子どもを対等な人間として尊重し、向き合うことが大切だと考えている。しかし、それは「子どもは小さな大人」という意味でのようだ。だから子どもを子ども扱いすることを嫌う。彼は、子ども扱いした教師の派手なパフォーマンスによる授業などではなく、「苦しみながらやってみるわり算」のように、苦労をして得られるたのしさのある授業がよいという。そのような学びによってこそ、子どもは、そこに人間としての自分の仕事をみとめるという。そういう彼の子どもに対する見方ゆえというべきだろうか、すでにこれまでも指摘したように彼は、子どもの成長における「遊び」や、子どもの子どもとしての固有性、独自性について、その重要性についての言及はほとんどみられない。
◆既存の科学教育は、公式の集まりでしかない。公式に当てはめて答えを導き出す、それは「自動販売機」で商品を買うようなもの。何が必要か、言葉と物(対象)との一致。叙述すべき物があれば、子どもたちの無駄なおしゃべりを矯正できるし、現に存在する物に対する適切な叙述こそが、真の科学教育の第一課程になるという。
◆アランは、「正しいことも記憶のなかに刻まれるだけなら何の役にも立ちません。私は、おうむ返しにされる正しいことよりも自分で発見した正しいことにより近いものの方を採ります」と述べ、子どもたちの間違いこそ大切なのだという。だから、もし自分に育てるべき弟子があるなら「弟子を誤りから誤りへと導き、ひとことで言えば申し分なく間違うにまかせておいて判断力を鍛える」という。
なぜなら思索とは、「正しいのか間違っているのかをあらゆる手段で確認しながら自問すること」でなく、「証明がどの程度の証明であるかを吟味し、『確からしい』ものには『確からしい』と判断し、『確かだ』ということには『確かだ』と判断すること」だと述べ、そのように微妙な差異を判断し理解することが、教育にとって大切な「疑うこと」や「模索すること」、つまりは思索することを学ぶことになるという。
◆教師は、子どもたちが経験する様々な出来事の機会をとらえ、その経験を生かした授業(例えば、悲惨な事件・事故の後におこなう憐れみや用心の授業)を行うことが必要であるが、そこで終わってしまっては駄目だという。次には、耳に聞こえず目に見えないもの(落下の法則や星の運行の法則、ボルトとアンペアの関係)を見ることが大切であり、想像から悟性への学びへと移らなければならない。
◆アランは、「小学校では何を学ぶのか。読書を学ぶ。文科のソルボンヌでは何を学ぶのか。読書を学ぶ。これが文学的教養では最も重要な点である」とし、プラトン、スピノザ、ルソー、バルザック、ユーゴ―、スタンダール、トルストイといった人たちの名前を挙げている。これらの人びとの書物には「春みたいに明るい感激、高等な懐疑、万物を霧でおおう秋の懐疑、厳しく、乾燥し、抽象的な思索の冬ごもり」がある。そして、そのような書物を読む、そして読み返すことを知るものこそ幸せであり、また他人の精神をも解き放つと高らかにいう。まさにアランの読書のすすめである。アランには、これらの読書を通じての深い教養こそが、偏狭な観念や欲望、あるいは戦争へと導く熱狂から人々を解放し、救うことになるという強い思いがある。
◆アランは、教養に関わって次のようなことも言っている。学問は大いにあっても教養のない人間に欠けているのは、幼少年期と青春期だと。別のところでは、知識人と教養人の違いとして「知識人とは、いくつかの事実を知っている人間である。教養人とは、いくつかの誤りを知っている人間である」と述べ、さらに、その違いは「まっすぐな精神と正しい精神との違い」と、言い替えることもできるという。そして、まっすぐな精神の弱点は「人類の幼少年期が理解できないこと、したがって自分自身の幼少年期を容認できないこと」だという。先の学問はあるが教養のない人間に欠けているという「幼少年期」のことが言及される。アランが「幼少年期」や「青年期」をどのようなものとして具体にとらえているのか。今回の資料からは直接的には知ることはできないが、ふと谷川俊太郎の「まっすぐ」という詩のなかにある「まっすぐを生み出す力は/まっすぐではない/曲がりくねり/せめぎあっている」という一節を連想した。ただし、詩における「まっすぐ」は、アランいうところの「まっすぐな精神」の方ではなく、「正しい精神」の方に当てはまる言えるだろう。
◆アランは、子どもの成長を自由の概念と関わらせながら大変面白いことを言っている。彼は、自由とはやらなければならないことを決心することだという。子どものなかには、俺は駄目なやつで、勉強の才能もやる気もないと自らあきらめる者がいる。しかしアランはそういう子どもに対して ❝ 負けるな、そこから這い上がれ ❞、❝ おまえにはお前を助ける力があると信じろ ❞ と鼓舞し、努力と成功の積み重ねの中で生じてくる自信と意欲が、あらゆる教育のばねであり、生徒におけるばねであると。つまり自分を信じて決断し、まず歩み出せと言うのだ。そして「現実における自由の一切の機微はここに凝集される」という。アランにとって自由は抽象的な観念ではない、自分を信じてなさられる積極的で実践的な観念なのだ。
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