8月の教育を読む会は、9名の参加となった。今回は、奈良大会のはじめの集いで全体講演を担当された藤原辰史さんの「子どもの商品化に抗する思想」と、実践報告を担当された入澤佳菜さん、鈴木啓史さんの「児童会 社会へのまなざし」を読んだ。
藤原辰史さんの論考では、労働力商品の形成の場としての学校からの脱却をテーマに、迷うこと、「欠損」や「傷」をポジティブに捉える教育の可能性が指摘されていた。ここでは、教育基本法に定められた教育の目的としての「人格」の形成をも、ラディカルに批判していく視点がある。この点に関しては、読む会のなかでは違和感を覚える人も多かったかもしれないが、実のところ私自身が最も共感したところである。もちろん、子どもたちへの「ねがい」を有さないところに教育は成り立たない。しかしながらそこでの「ねがい」は、往々にして現実社会にも規定されている。ゆえにそこでは常に「教育なるもの/教育ならざるもの」を問い続けなければならない。つまり、藤原さんの論文から私たちは、この間進められている教育改革の動きに対して距離を取る方途を学ばなければならないのである。
入澤さん・鈴木さんの論考からは、奈良教育大学附属小学校における6年間の児童会活動の様子がいきいきと伝わってきた。奈良教育大学の特任講師時代、度々お世話になってきたお二人の報告を読ませていただき、改めて同校の取り組んでいる教育課程づくりの大切さを感じた。昨年度の終わりごろ、同校の全校集会に参加させていただいたことがある。1時間の集会しか見ていないが、1年から6年までの子どもたちが互いの成長を確かめ合う場なのだなということを体感した。「低学年の子どもたちの発表をまなざす中学年、高学年の子どもたち。中学年の発表をまなざす低学年、高学年の子どもたち。高学年が全校集会を進めていく姿をまなざす低学年、中学年の子どもたち。子どもたち一人ひとりまなざしの先に自分の将来を見ているんでしょうね」といった感想をお話ししたのを思い出す。
上記の人間形成の方法は、近代以前の社会では地域行事を通して意図的・無意図的も含めて行われてきたものであり、人の育ちを支えてきた土台の部分といっても過言ではない。しかしながらコロナ禍のなかで、祭りといった地域行事も、学校における特別活動(学校行事)も中止、縮小に追い込まれている。そのなかで、子どもたちの発達・成長をいかに保障していくのかが、私たち大人には問われている。(後藤篤さん)
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