9月の会は、クルプスカヤの『家庭教育論』(青木文庫)と、『婦人の解放と教育』(明治図書)の2冊から太田先生が作成した抜粋資料をもとに読み合いました。
『家庭教育論』では子どもの見方や関わり方、子どものおもちゃや本の与え方、また教育制度・政策面にかかわって「男女共学」「反宗教教育」「労働教育」などについて読み合いました。
『婦人の解放と教育』からは、女性の自立と解放にかかわって「宗教」について読み合いました。以下は、若干の要旨と感想です。
◆クルプスカヤは、子どもたちが何を好み、何を必要としているかの観点から、年齢に応じたおもちゃを与えることが必要だと述べ、「子どもは観察、まね、同じ動作や単語や遊びの際限ない反復をつうじて環境」を学ぶ。そういう子どもたちの姿から、「子どもの自主活動がなにを目指しているのかを観察し、この自主活動を促すようなおもちゃ、自主活動を組織し、一定の方向にそれをさしむけるようなおもちゃを持たせることが必要」だという。また、おもちゃを与えるさいに「色」や「大きさ」、「距離」、「触覚」に考慮することにも言及している。彼女が革命家としてだけでなく、教育にも精通していることを感じる。また同様に、自主活動を「組織」する、そして「一定の方向に」という指摘には集団主義教育を教育論とする面も見て取れる。
◆子ども向けの本については、「ひとえに現実的」でなければならない。「あるがままの実生活を表していなければなりません」と述べ、また挿画についても「労働も大人の生活も、いろんな状態や職業の人びとも、町や農村その他も描かれていなければなりません。」とし、現実世界の認識とリアリズムの強調を主張する。故にとも言えるが、彼女は「現像しないものの描写はどれも子どもの発達を押さえるもの」だとし、架空の魔女や妖精などが出てくるもの、あるいは襲いかかる狼や悪魔など怖いものや神秘説のたぐいが登場するものなどは控えるべきだという。唯物史観に立ち、社会変革へと向かうソビエト社会においては、空想的な物語はダメだということなのだろうか。それらも、ある意味では現実世界を反映していると言えるし、人間には私たちを取り巻く外なる現実世界と内なる精神的世界がある。そのことを考えると魔女や妖精、狼や悪魔が出てくることを一概にダメだとは言えないように思うのだが(そもそも、この現実世界だってじゅうぶん恐ろしく怖いことがあるではないか)。なお民話については、他の箇所では与えてよいものと考えていることが読み取れる。民話もじゅうぶん残酷だったり怖かったりするが、彼女は民話についてはなぜそう考えたのか、話題に上がった。
◆男女共学については、ブルジョア諸国の多くの学校は男女別学で、共学であっても、そこで行われている教育は紳士淑女としてのブルジョア的教育が行われているにすぎないという。言うなれば、それは《女は知る必要はない、男の話に口をはさむな》式の古い慣習や社会意識のもとで、女子には貧弱でしかも宗教や音楽、手芸に多くの時間がさかれたものだった。しかしソビエトでは女性はあらゆる点で男性と同権であり、学校では女の子も男の子と机をならべてともに学ぶようになっている。依然としてみられる実生活上の古い習慣を克服していくことが説かれる。
◆労働教育については、前回すでに触れているので割愛する。ひとつだけ付言すると、大人の労働と子どもの労働の違いとして、大人の労働は一定の目的意識を持っているが、子どもの労働は周りのものの認識に目的がある。そのため子どもの労働は移り気で、幼年期の子どもは《何かをはじめ、何かに夢中になり、何かを目にとめる》。これが幼年期の特徴であり、それを踏まえた学び、成長できるような労働を与えねばならないと述べている。
◆クルプスカヤは、子どもの性格と創造性について次のようなことを述べているが、それらは彼女が教育についてきちんとした見識を持っていることを示しているように思った。
①子どもたちは、ためしたり、見たり、触れたりしたいのだ。こうした子どもたちの要求を十分に考慮しなくてはいけない。
②子どもたちは、よく物まねをする。これは知識習得の一方法。また何でもやってみようとする。年上の子が足を跳ね上げれば、まねをして足を跳ね上げる。物まねは積極性の1つの表れ。
③遊びは、経験による検証。遊びを通じて子どもたちは非常に多くのことを身につけることを考慮する必要がある。
④子どもは、最初はなにか有益なものを作ろうと考えていても、途中で他のものが気になったり目に入れば、そちらへといってしまう。当初は粘土で暖炉をつくっていたのに、途中で人形を作った方がいいと思えば人形を作り始める。これが幼年期の特徴であり、このような子どものあらかじめ想定しない創造的思考を考慮しなくてはならない。
◆ロシアの農夫や労働者たちは、重労働と貧困のなかにあえいでおり、彼らの生活に宗教はしっかり根づいている。人々は宗教によって日々の苦しみを慰められ癒され、励まされている。教会芸術や教会の讃美歌、あるいは聖歌隊の活動は、心の悩みに対する欲求に一つの芸術的表現を与え満足させるものでもあった。クルプスカヤは、宗教が民衆の生活に果たしている役割の大きさを、その現実をしっかり認識していた。
だが、このような宗教にすがり寄りかかった生活では、いつまで経っても生活や社会はよくならない。クルプスカヤは宗教にではなく、人々が苦しみや悩みの原因となっている政治や社会へ変革に、その一歩を踏み出すための教育のあり方を主張した。
そのための教育は自然現象や社会現象をその連続性、相互依存性、原因結果を追求する科学的な教育であり、現象の法則性を理解すること。また子どもたちは生活の集団性を深め、できるだけ体験によって生活を豊かにし、実生活を読み、理解し、想像するようにすることが必要だとした。そのような教育を行えば、宗教が入り込む余地はないし、子どもの孤独は起こらないので宗教への志向も起こらないだろうという。
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