10月に引き続き、バートランド・ラッセルの教育思想について、彼の著作である『教育論』(1926)と『教育と社会体制』(1932)をもとに読み進めていきました。太田先生の言によれば、『教育論』は、ラッセル自身の子育ての知見も踏まえ自由闊達に論じたものだが、『教育と社会体制』は、その発行年からもわかるように世界的な恐慌と迫りくる戦争への足音のなかで、その危機感を抱えながら執筆されたものだという。
以下は、太田先生の作成資料のごく一部にすぎませんが、ラッセルの教育思想について記したいと思います。
さて、太田先生の作成資料にもとづき、簡潔にラッセルの教育思想について述べるなら、彼の教育思想は、まずは経験主義、実証主義にもとづく科学教育、知性教育にあると言える。ちなみに子どもの性格形成は、6歳までに完成するとし、それ以降は知性教育が主になるとする。知性教育において大切なのは子どもの好奇心で、子どもの好奇心を満たすこと、好奇心を満たすために必要な技術を授けること、さらに教師は好奇心を刺激してやることだと言う。だから子どもの好奇心が学校のカリキュラムから外れた方向に行っても、それに水を差すのではなく、その好奇心を満たす方法を教えてやるべきだという。よって、ここからもう一つの特徴ともいえる子どもの「自発性」の尊重ということも見えてくる。さらには子どもの好奇心と自発性にもとづきながら、教育が子どもの成長を実りあるものとなるためには「集中力」と「忍耐力」が必要であるという。
ラッセルにとって「好奇心」「自発性」「集中力」「忍耐(力)」の4つは関連した一体のものとしてみることができる。この4つのキーワードを見たときに違和感を感じるとすれば、「忍耐(力)」ではないだろうか。自発的で好奇心にもとづく学びなら、そこに子どもの「集中力」を見て取ることは、そう難しいことではないだろう。一方、「忍耐(力)」の背後には退屈がひかえており、それは好奇心や自発性とは相反することにように感じられる。
しかしラッセルにとっては相反することでは決してない。なぜなら知性教育は「正確な知識を身につけること」であり、正確な知識を習得するためには退屈に耐えなくてはいけないからだ。そして好奇心と自発性にもとづいて学ぶことの目的がきちんとわかれば、その目的のために人は耐え忍ぶ(がまん)することができる。それは自発的忍耐(がまん)と言ってよいだろうか。だからラッセルは「意思によるコントロール」としての自発的忍耐(がまん)をも必要なのだという言い方をする。
彼の教育観の特徴として、ほかに挙げるなら上記のことからもわかるように彼の教育は「消極教育」の系譜に位置し、子どもの自由を尊重する。また反競争主義教育の立場でもある。
ラッセルは、競争による過剰な教育によって最もひどい害を受けるのは聡明な人たちであり、最良の頭脳の持ち主と最大の想像力の持ち主とが、競争という祭壇に犠牲として捧げられるという。またそれは教育上悪いだけでなく、青年たちの前に示されるべき理想としても悪であるとし、「いま世界が必要とするものは、競争ではなくて組織と協力である。競争の効用を信じるすべての信念はいまや時代錯誤である。」と競争社会を批判する。ラッセルに言わせれば、未だ競争の効用を信じている我々の社会は時代錯誤も甚だしいということになるだろう。
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