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ゼミナールsirube 9月例会

日時 2022年9月5日(月)
13:30~16:00
会場 みやぎ教育文化研究センター
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 当日配布
内容

夏休みということもあり8月はお休みしましたが、9月からまた元気に再開します。
今回は、「発達の最近接領域」でよく知られるヴィゴツキーを取り上げます。ヴィゴツキーの『子どもの想像力と創造』『子どもの心はつくられる』の2冊をテキストに、そこからの抜粋資料をもとに読み進めます。ぜひご参加ください。お待ちしております。

新型コロナウイルスの感染防止のため、健康不良の方は参加をお控えください。また参加の際には、手洗いマスク着用など感染防止にご協力ください。
コロナの感染拡大などで中止等変更の場合は、ホームページでお知らせいたします。事前にご確認下さい。よろしくお願いいたします。

前回の
様子

7月の会は、6月に引き続いてヤスパースの教育哲学について読み進めました。
会の前半は『教育の哲学的省察』をもとにヤスパースの教養論を、後半は、世界恐慌が起こり、またナチス台頭という不安な社会状況のなか執筆出版された『現代の精神的状況』をもとに、ヤスパースが当時のドイツ社会(1920年-30年代)と人々の精神状況(教育)をどう把握し認識していたのかをみていきました。
以下では、『教育の哲学的省察』をもとに、会での内容を一部紹介することとします。後半に取り上げた『現代の精神的状況』については具体的に触れませんが、そこでヤスパースが展開している精神的状況とその危惧は、『教育の哲学的省察』でヤスパースが論じていることと相通じています。
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ヤスパースは、教養とは「生の形式で」あり、「思考能力としての訓練をその脊柱とし、秩序づけられた知識をその胴体とする」。また「直観と判断と知識、そして言語に精通していることが教養の素材である」と述べている。さらに「そのような教養は、精神の運動を全面的に遂行しようとする心構えを有することによって、人間にもっとも広い空間を開いてくれるのである。」とも記している。これらの発言を踏まえ教養について言及するなら、教養とは、学問や文化に対する幅広い理解と知識にもとづき、よく考え吟味し、物事や自らの生き方について判断することによって生の可能性の空間を押し広げてくれるものと言ってよいだろう。
その際、ヤスパースは「知そのものは教養でなく、知識はある目的への手段である」と言明し、知識を所有することと教養とを明確に区別するとともに、教養とはその知に依拠しつつも、その知のあり方を支えている精神的内実を自分のものにすることこそが教養なのだという。さらにそのような教養は、伝承や教育に、祖先や家族に、共同体の実態に拘束され規定されるものであり、したがって国や民族によって教養の内実は異なってくる。その意味で教養は生得的なものでなく「第二の自然」であるのだ。
では、ヤスパースの言うところの教養の具体的内容・内実はいかなるものなのだろうか。ヤスパースが教養の中心におくのは、古代ギリシア・ローマ時代の文化であり世界である。彼は「西洋においては、人間存在の偉大な飛躍はすべて古代ギリシア・ローマ時代と新たに接触し対決することによって生じたのである。古代ギリシア・ローマ時代が忘れられた時には野蛮が現われる。自らの土台から切り離されたものが不安定に揺れ動かざるをえないとすれば、古代ギリシア・ローマ時代を失うときのわれわれがそうなのである。われわれは、この古代を独特な形で自分のものとすることによって、そのようになったところの民族に属している西洋人なのである」と。しかし一方で、ヤスパース自身「こうした教養が多少なりとも重要性を意味するような人々の数はますます少なくなっている」と言及し、古典語教育を主とするギムナジウムによる教育を奨励することは、今の時代には合わないことを感じている。それでなお、ヤスパースは「西洋の子どもたちは皆、聖書以外にも古代の歴史やまた古代の記録書や卓越した古代の芸術などに精通するようにならなければならないのである。」という形でその重要性を指摘する。
以上のヤスパースの発言から見てとれるように、二つには歴史的知の重視である。ヤスパースは言う。「歴史が なければ、われわれは自らの精神が呼吸するための空気を失うことになる。われわれが自分たちの歴史を覆い隠してしまうなら、われわれはそれがどのようにしてであるかを知らずに、歴史に襲われるであろう」と。そして「古い知識とその直観的理解は現在でも有効な先導的教育者としてその正当性を有している。その精神的空間に踏み込むことによって歴史的な知を自分のものにすることは、私自身の人間存在を再生させることをも可能にするのである。この教養は過去のものを習得しながら、現在のものから安易な方法で逃れるために役立つのではなく、高いところにまなざしを向けることによって、私が実現可能なその頂上に至る途上で現在求めることのできるものを失わないようにするために役立つのである。真の歴史性は、生活の新しい方向を培う源泉を見出すための用意ができていることを教えるのである」と歴史的教養を身につけることの重要性を指摘する。ゆえにというべきだろう。ヤスパースは、新しいものばかりに目を奪われ、瞬間的享楽に満足を見出す当時の大衆社会については、以下のように危惧を表明している。そして、そこでヤスパースが指摘する具体的状況は、まさに私たちの現代社会にも同様であるといえよう。引用がちょっと長くなるが、以上をもって一先ず報告を終わりとする。

「大衆的人間はほとんど暇な時間を持たず、全体に基づいて生きることもなく、もはや具体的な目的もなければ努力しようともしない。大衆的人間は機が熟するのを待とうとしない。すべては即座に現在の満足となるものでなければならないし、精神的なものはその時々の瞬間的な楽しみごとになってしまっている。新聞が書物に取って代わり、生涯の伴侶となる著作に代わっていつでも別種の読み物が読まれる。読書は速読となり、手短なものが好かれるけれども、それは心に刻み込まれるようなものではなくて、知りたがっているものでありながら、すぐに忘れてもさしつかえないものである。内容と精神的に一致しながらする本来の読書がもはや不可能なわけである。人はいま聞いたばかりのことにもう飽きてしまい、それゆえに、それがただ新鮮だということだけで魅了してしまうような新しいものが求められるのである。その新しいもののなかに期待した根源的なものがあれば歓迎するけれども、しかしそれをたんにセンセーショナルなものとしてしか扱えないので、まもなくそれも再び放り出してしまうことになる。過去のものがもはや用をなさない新しい世界として成長しつつある時代において、そこで基礎づけられた意識から存立するためには、多少とも効果的にするために、好んで新しいものという呼称がつけられるのである。すなわち、新しい思考、新しい生活感情、新しい体育、新実証主義、新しい経営などである。何かが新しいならばそれは一つの積極的な価値になり、新しくないならば軽蔑的な価値判断になる。」