11月10日(土)10:00~12:30に、みやぎ教育文化研究センターで読む会を開催しました。参加者は6名でした。
『教育』11月号の特集2「現代の自己表現と生活綴方」のなかから、まず、北川健次さんの「自由な語り合いの時間を教室に」(69‐74頁)を輪読しました。
実用的な目的に直結する書く活動を急がせるではなく、「生活」を綴る(70頁)こと、何を書くか迷っている子ども、どうしても書けない子どもには書くことを迫らず、朝の会の「健康観察」のなかでのおしゃべり、一枚文集の読み合いのなかで何らかの感想をもち、自分の書くことへのヒントにつながることを期待して待つ。北川さんが、小砂丘忠義から学んだことを今の教室で実践していることがわかります。
教室の中に、教科の学習ではない「何を言ってもよい自由な時間」(74頁)を保障し、子どもたちが自分の生活の中に書くことを見出す、自分の生活をふり返る機会を忙しいなかでも作り出しています。
これは、資質・能力なる、すぐに役立つとされる能力を急き立てるように学ばせることを狙う教科横断的な学習とは全く異なる発想、子どもの生活意識を文章表現し読み合うことで子どもたちが、そして教師自らがそれぞれの生活を生きていることを確かめ合うことを大切にする考え方から生み出された「何の教科でもない」時間でしょう。
次に、渡邉由之さんの「子どもの自己表現をまもる教師」(86‐93頁)を輪読しました。
勝田守一が「子どもの感覚」について論じたエッセイを引きながら、子どもが自らが生きるなかでつかんでいる「誠実な感覚」(88頁)を自由に表現することを大切にする教育実践を広げていく必要があるとしています。こうした誠実な感覚を置き去りにして、知識や技術や価値を植え付けようとする教育でいいのかという問題提起です。
とらえどころのない感情を「ことば」を用いて「象る」(89頁)ことを通じて自己のなかに形成されていく何かが、教科学習などを通じて学ばれる知識や技術、ものの見方や考え方を身に付ける土台になるのではないでしょうか。
子どもが自らの生活感情を表現する時間を、過密になる一方の教育課程の間隙を縫うように生み出すことには、教育的価値がある行為だ。渡邉さんのこのことばに、参加者の小学校教師が励まされたという感想を述べていました。
『教育』11月号の特集2は、特集1「教育実践記録と教師」ともリンクしていて、相互のつながりも意識して読むことができました。
教師自身が自らの生活を生きているかを、教育実践記録を書き、読み合いながら、教育の矛盾を批判的に捉え、教師が子どもとの関わりを、自らの教育実践を生き直し、育てていく。教育実践記録は「教師の綴方」なのだなあ。山﨑隆夫さんの文章(「教師が実践を書くことの意味」5-10頁)を見てそう感じました。あるいは、谷口睦月さんが「帰る場所、出発する場所」(35‐40頁)で、「カレーの会」という場で「それを書くんや!」と言われることで自らの経験を書くことを励まされつつ、自らがあえて「叱らない」ことを選んだことを「書きたい」と思い、教育実践記録が綴られたことも印象的でした。
参加者それぞれも、自分たちの「生活」を問い直しながら学び合った時間となりました。
(文責:本田伊克)
|