2014年6月から読み始めた『人間教育の哲学』は、先月(3月)の会をもって無事終了しました。日ごろ意識したことはなかったのですが、おおよそ9年あまりの会となりました。継続は力と言います。どこまで力になったかはわかりませんが、物事の移り変わりが早い現代において、続けることそれ自体がとても大切なことのように思います。
この4月からは、『人間とその術』をテキストにした学習会を始めます。本書の内容とねらいについて、本書「はじめに」より以下に紹介します(「はじめに」から一部抜粋して紹介します)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本書の機縁となったその始まりは東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所のの崩壊であった。そのとき、私の心のなかで震度6を超えたものは近代文明を震源とする精神的震撼であった。キルケゴールは自らの魂の出来事を大地震と呼んだが、いまわれわれは近代文明の制作世界を眼前に見すえるとき、精神の大地震に襲われるのを覚える。いったい人間は何というものをつくってしまったのだろう。人間は自分が作ったものに気がついているのか。そのような制作は人間に許されるのか。
私にとって原発事故が問いかけた問題は「術とは何か」という問いであった。— 略 — 術を訪ねることによって人間がどこから始まり、どのような道をたどり、どこにやってきたかを判定してみよう。術は人間の足跡を教える。足跡を見ればそこを誰が通ったかがわかる。術は現実世界のなかでの人間の生きざま、人間と世界との交渉関係を目に見えるものにする。
私たちは術の問題を考えることによって、人間の生きてきた道を振り返りたい。術の歴史と術の現代をたどれば、現代世界がどのような世界かを見届けることができるからである。それではなぜ現代を問うのか。現代が真に危機の時代であり、人類史の転換点に立つ時代だからである。人類の未来が真の意味ではじめて問われる時代だからである。そして人類の未来が途絶えることのないように、いまこそわれわれの足もとを見つめなければならないからである。
いま何が起こっているか。そのことは人間をどこに連れて行くのか。あるいは人間を滅亡へと追いやるのか。人間は何を行ってはならないのか。そして、何が人間にとって真に為すべきことなのか。—これらが今日における術をめぐる問いである。
|