Shirube感想
今回は、「第二講 術とは何か〈二 ものの世界〉」を読みました。
術とは、制作物を生み出す営みであり、それには、「ものがたり」と「ものづくり」の二つの世界があるということが、前回のお話でした。それで、今回はその「もの」についてです。
三木清の「構想力の論理」とアメリカのベアードの「物のかたちをした知識」、津田雅夫の「ものの思想」という3人の本を中心に考えました。
三木によると、ものの形を作るはたらきを「構想力」といい、それは、人間が何かを作り上げるときの原動力になるといいます。「ものがたり」「ものづくり」を考える時、構想力が大切だというわけです。わたしたちをとりまく現実世界は、この構想力の働きが具現し具象化したものだというのです。その構想力の4本柱が、「神話」「制度」「技術」「経験」です。
次のベアードは、「もの」一般について語ったのではなく、科学の実験の器具や装置という「もの」について語っています。道具や機器は科学を補助するにすぎないかというと、そうではなく、それがなければ実験も測定も進まなかったのですから、この機器性や道具性や装置性からこそ科学や思想が生まれたとも言うべきだというのです。もしそうだとしたら、これは器具や装置そのものが知識をつくっているということになります。ということは「もの」が「ものを言っている」というわけです。「物のかたちをした知識」とはそういうことのようです。
ベアードが言っている「知識を測定機器にカプセル化することによって、判断における人間の省察の役割を最小にするそれは一種の『押しボタン客観性』を提供し、われわれは人間の判断力ではなく、装置を信用することになる。」や「機器が自律的に、あるいは理論と無関係に発達することがある。」などは、一種の人間疎外の状況でしょうか。今、私たちの周りでは科学技術が発達し、機器があふれています。そしてその機器がつくり出した知識を鵜呑みにしてしまい、私たちは五感をフルに使って判断するということが少なくなってしまいました。私たちは、「もの」をどのように扱うか、考え直すときに来ているのではないでしょうか。
最後の津田雅夫の「もの」は「すぢ」という考えは、今ひとつ分かりませんでした。ただ、ものをめぐって、日本的(東洋的)な見方と西洋的な見方があるというのは、おもしろいものでした。西洋は、物事を客観的・構成的・論理的に見、東洋は、総合的・全体的・主観的に見るというのは、納得です。
私は今、体や健康に興味があります。西洋のように体のことを分析的に見て、悪いところを手術で取って、化学物質である薬を投入して悪い細胞をたたくというやり方より、東洋医学の体全体を見て考え、食事や運動や気の流れなどで崩れたバランスを整えて、悪いところとも共存しながら生きていくという考えが好きです。
今回は、普段何気なく使っている「もの」という言葉のあらわすところを、いろいろな視点から学びました。私たちは、この「もの」とどのように関わっていくかが問われているのではないかと思いました。
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