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今回の会場は宮城教育大学です。オンラインで全国の『教育』読者と交流する予定です。

『教育』を読む会1月例会

日時 2024年1月20日(土)
10:00~12:00
会場 宮城教育大学5号館3F 303教室
会場の詳細はこちら
参加費 無料
テキスト 『教育』2024年1月号
内容

【1月号】
特集1  改めて考える子どもの権利と親子関係
特集2  「働く」と「育つ」をつなぐ職業訓練

【特集1】支援を必要とする場合のある養育形態としての家族関係と、家族制度のズレの中で苦しんでいる子どもたちもいる。特集1では、そんな子どもたちの声を軸に親子関係のあり方、これからの家族制度を考えてみたい。法制審議会が提案した離婚後共同親権は、今まさに進行中の制度改革である。これらを念頭に、子どもの声に耳を傾け、彼らの必要とする養育の場とそれを維持する家族関係、学びや支援づくりに伴走する教育を考えたい。
【特集2】「仕事の世界への渡り」という青年期課題において、重要でありつつも傍流に置かれているのが「職業訓練」である。日本では、企業内訓練が主流であり、「職業訓練の公共性」というテーマはあまり検討されないまま、周辺部分で細々と実施するだけにとどめられてきた。
他方、障害者総合支援法の下、障害者の就労支援も進みつつあるが、その事業の広がりに比して、実践課題や質の検証はなかなか進められていない。
特集2では、こうした職業訓練実践論に迫るための基礎作業として、職業訓練の実情を整理してみたい。(各特集「表紙のことば」をもとに作成)

前回の
様子

12月例会は、12月号の菅野真文「『困難』なのは誰なのか」を輪読し、話し合いました。
本論文は、菅野さんの教師としての成長を、その過程における生徒理解への深まり、さらにその生徒理解を通じての実践的あらたな展開として、一人の教師のライフ・ヒストリーとして語られている。
論文冒頭、菅野さんは精神科医の野田正彰さんの『教師は二度、教師になる』を引用する。ルソーの「私たちはいわば二回この世に生まれる 一回目は存在するために 二回目は生きるために」が浮かぶ。教師の場合も同様で、《一回目は教師の資格をもつ者として、二回目は教師として生きようとの自覚によって》と言い換えられるだろうか。菅野さんは、その「教師として生きようとの自覚」を、初任のいわゆる「困難校」での反抗的な生徒たちとまったく成立しない自らの授業という経験を課題として引き受けることを通して形成していく。それは教師としての自覚とともに、反抗する生徒たちのなかにこれまで虐げられ疎外されてきた学習経験(「できないことを叱られすぎてきた」)や生活(「生徒には生徒の事情がある」)に対する魂の叫び、今を必死に生きる生徒の姿を見出すことになる。菅野は、これらの生徒理解をもとに自らの教育実践のあり方を見直し模索していく。そのような授業の取り組みとして、論文中では差別のなかを生き、またその差別意識を自らも内在化して生きる生徒たちの「差別」をテーマとして取り組んだ授業が紹介されている。
菅野さんは、論文最後の小見出しを「誰が『困難』なのか」とし、教育「困難校」という時、そこでの教育を「困難」にしているのは誰なのか?と問う。そして、それは教師の側に、教師の子どもたちを見る視点そのものにあるのではないかと、自戒を込めて提起する。
この語りに触れて、思い出したことがある。この間、研究センター主催の高校生公開授業の受講生募集で県内の高校に電話をかける機会があった。そこでしばしば聞かれたのは「うちの生徒は無理・・・」という返事だった。既に高校入試で受験学力としてのふるいにかけられてきた生徒たちという事実と、実際に教えている生徒の実態が、教師に「うちの学校の子たちは・・・」という意識を持たせているのかもしれないが、高校生公開授業の中で見せる高校生たちの姿は進学校かどうかなどということはまったく関係ない、それぞれに個性的で同年齢らしい姿を見せてくれている。そのような姿をこれまでの取り組みの中で見ているだけに「先生、それを言っちゃあ、おしまいよ」という寅さん的気持ちを感じたりもする。菅野さんの提起で、そんなことも思った。