2月の会は、テキスト「第3講 崩壊論-作ったものは壊れる 《3 近代世界の崩壊》」を読み合いました。
今回は、まずニーチェが19世紀末から200年間をニヒリズムの時代であると予告したこと。そして、まさに近代の始まりから現代にいたるこれまでの歴史は、「すべての価値の価値顛倒」という予告のとおり、それまで地域社会に浸透し機能してきた伝統的な諸価値を解体し、それに代わり「ものごとの固有の価値と意味を認めず、機械的に(魂を込めずに)処理しようとする」ニヒリズムが広がった。
このニヒリズムは、近代科学の特質である「没価値性」や「厳密性」「客観性」などと親和性が強く、ともに手を携えて歴史を駆動し人々の意識を牽引してきた。ゆえに現代は、科学的ニヒリズムが闊歩し、科学的なエビデンスがあらゆる事象の評価を裁断する世界になってきている。
その一例として、月刊『教育』(2024年2月号)で神代健彦氏は、現代の大学教員が比較可能な定量的尺度にもとづく、すなわち「著書や査読付き論文、被引用の数、科学研究費助成金に代表される外部資金の獲得数」、あるいは「学生の授業評価アンケート結果や就職率」などによる数量的評価に晒されながら日々研究していることが述べている。そして、それゆえに「個々の研究や教育実践に内在的で、・・・比較不能な固有の価値といったものは、ことごとく捨象されること」となり、また「哲学と社会学と物理学の、その研究と教育の(本来的には比較不能な)価値を比較すること、その評価をめぐって競争させること」が可能になるという。
上記のごとく現代をニヒリズムの時代として描き出す太田先生にとって、これからの社会や未来は、どうあればいいと考えているのだろうか、あるいはどのようにみえているのだろうか。
今回のテキストの範囲では、一つは、近代の世界がこれまで掲げてきた発展、進歩、進化など「右肩上がり」の時代から、「これからの世界は『右肩下がり』を価値あるものとして知らなければならないという。加速(筆者注:技術革新)は容易であり乱暴に実現されたが、減速と逓減は真の叡知となり高度の術知を必要とする」と述べ「逓減の論理」を挙げている。このようなことは近年、さまざまな分野からも言われるようになっている。また、近代の掲げてきた上記の標語に代えて逓減、制御、帰還などが次の時代の価値ある言葉とならなければいけないとも言及している。二つには、近代を超える方向性をさぐる一つの手立てとして20世紀後半に現れたポストモダン思想の潮流(デリダやリオタール、ドゥルーズなど)を取り上げ、それらが近代を科学と合理主義の時代と認識している点は妥当としつつも、脱近代への突破口になり得ない限界についても言及している。また近代の要素還元主義的な思考様式に代わって人間本来の思考方式に移行しなければならないとし、ベルクソンの直観主義的思考についても触れている。さらには、近代のキーワードを「分離」だとすると、新しい時代のキーワードは「結合」であると述べている。しかし、これらはまだ十分に展開されてはいない。それについてはテキスト「第2部 人間の術へ」によって展開されることになるのだろうか。これからが楽しみである。
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