年月日 | : | 2011/2/24 |
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投稿者 | : | 勝然たみ子さん |
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「特集 教育の現場はどうあればよいか」を読んで
特集の中でも特に第1部の「座談会 若い教師 現場の今を語る」を興味深く一気に読みました。
教師としての喜びが学芸会の行事であったり、音楽の授業での合唱や単元のまとめとしての感想文であったりという発言がありました。
毎時間の何気ないごく自然の授業がドラマチックであったら私達教師はもとより子どもたちがどんなに幸せなことでしょうね。
それにしても帰る時刻が7時というのに驚いていたら、10時とはぶったまげてしまいました。
教師でない時間がほとんどないという生活はどんなものでしょうか。
退勤して一生活者として身の回りのことを何くれとなくしたり、趣味に生きたり、サークルの活動に参加したりといった具合にリセットしなかったら、朝の訪れすら新鮮なものではなくなるでしょう。
子どもたちに学校での喜びは何かを聞いたらどう答えるでしょうか。
特別支援学級(一人学級)での帰りの会で「よかったさがし」というのをやりました。
私としてはこんなことができるようになってよかったなどの発言を期待していたのですが児童は毎回「そうじをしてよかった」など、ほんの短い時間であっても友達と関わることができた場面を選びました。
しごく当然なことかもしれません。
もし座談会に出席された先生方のクラスの児童によかったさがしをさせたらきっと休み時間など友達と関わることができた場面を選ぶかもしれません。
子どもたちは学校で友達と関わる中でこそ成長するし、教師はその橋渡し役をする黒子のような役割を担っているのだと思います。
教師はそんなにがんばってはいけないと思っています。
昨年、私は次のような考え方に出会いました。
「子どもたちは我々教師と同じくらい有能で、愚かである。」
「教師が教材研究をすればするほど皮肉なことに子どもの分からなさが分からなくなる。」
「子ども同士で教え合う時、教える側は一方的に教えるわけではなく、分からない子どもにどうしてこうなるのなどと問い返されることにより、分かっていたつもりのことをあらためて深く考えることができる。」等々。
私にとって目から鱗、膝ポンの新鮮な考え方でした。
そして3学期のある日、次のような体験をしました。
ささやかなことですが衝撃でした。
私がその日、集団下校をする子どもたちを校庭に並ばせる係でした。
集団下校は集まるのに時間がかかったり、おしゃべりをしてだらだら並んだりすることが多いのです。
6年生は用事があるのでいませんでした。
私は「今日は5年生の皆さんがリーダーとして、並ばせて下さい。」と言いました。
ざわざわする中にも「並んで!」という声が聞こえました。
それで感じたままに、「先生みたいな人がいるんですね。」と言った所、その場が水を打ったようにしーんとしてしまったのです。
遅れてきた子どもたちもそれに習いました。
『どんぐりと山猫』のしーんとした場面のちょうど逆のような心理現象だったのかもしれません。
「先生みたい」という表現がそんなにも子どもたちの心に響くとは思いませんでした。
もっともっと子どもたちを大人扱いしなければと感じた1コマでした。
子どもたちに心地よいリズムと響きを持ったおもしろくてまじめな言葉たちを精選して届けるという作業を大切にしたいと近頃強く感じています。
ガンバリズムが横行する教育現場でよく耳にする無味乾燥な叱咤激励のことばに子どもたちは生きる希望を見いだしているのでしょうか。