年月日 : 2011/7/13
投稿者 : 熊谷富代子さん

100日過ぎて

震災直後から、30年も前の神奈川の同僚などから手紙やメールが届き始めた。

被害の状況をニュースで見て、私の実家が気仙沼ということを思い出してくれて、安否の確認やお見舞いの言葉を届けてくれたのだった。

電話が通じないし、私は携帯電話を持たないので、最初はハガキが唯一の連絡手段だった。

神奈川の友人たちは、一度きりの見舞いの言葉を送ってくれたのではなく、仕事の区切りがついたらボランテイアに行こうとか、不足していた品々を送ってくれたりとか、疲れもたまっただろうから、おいしいお茶を飲んで甘いものでも食べて元気を出せとか、繰り返し励ましの心と言葉を届けてくれている。

自分ならこんなことができただろうかと、今までの自分の心の働かせ方の貧しさを反省もさせられた。

みんなだって、何もないわけではないのだ。
それぞれ、自分の心になにか重荷を抱えながら、こうして励ましてくれているのだ。

そんな友人たちに励まされると頑張る気力が湧いてくる。
そんな友人たちに、今、気仙沼はこんなだよというメールを私は時々送っている。

6月。友人からのメールに私は次のような返信を送った。

お元気ですか。お母さんの体調と自分の体調と、気遣いしなければならないことが重なってお疲れのことと思います。

私はというと、今週は、仙台での仕事?が続いたのと、やはり少し心身共にお疲れモードになって、気仙沼行きを1週間休みました。

先週は、八戸に避難した友人が気仙沼での手続きのため私の実家に泊まり、高校以来の話をして寝不足の疲れも。

朝は小学生を送って、午後は幼稚園を迎えに行って、間はちょっとお掃除、農作業の手伝いなど、猫の手よりちょっとましな手伝いを気仙沼ではしています。

なにしろ人でがない。
さりとてボランテイアの方にお願いできる仕事でもない。

そういう「あうん」の呼吸で手を出せるところに手を出し、実家の被災者たちがダウンしないようにと、私なりに気遣い、気疲れも積もってきたなあというところです。

今日は、区役所に行って高速道路無料の手続きをしてきました。
ちょっと助かります。

気仙沼の水道の方は、まだそのまま飲めないのですが、とにかく助かります。
飲み水は、今のところペットボトルと給水車に頼っています。

電話は、線をつなぐ電柱のような柱が実家の庭にたちました。
線はまだつながっていませんが、もうすぐだなあと、その柱を見てうれしい気持ちになっています。

仙台の我が家のほうは、工事が混んでいるので、お盆過ぎに作業開始と打ち合わせができました。

私の団地は、今回結構被害の程度が大きい住宅が多く、無傷のところはほとんどありません。
小学校も使えず、中学校との併設で新学期をスタートしました。

気仙沼の方は、やっと、個人の住宅や、農地の瓦礫の片付けに手がつけられはじめ、瓦礫の山の分別ができてきました。

その山を運ぶ先がないのが今の問題のようです。
仮設住宅は、小中学校の校庭目一杯に建てられ、外での部活はおろか体育の授業も休み時間の遊びもできない状況です。

これが2年3年、下手をすれば5年も続くのかと思うと、子どもたちはどうなるのかと不安になります。

それなのに、仙台では、学力向上を目指し学力テストも市独自で実施するというのです。

教育関係者の実生活者との意識のずれの大きさに暗澹たる思いに駆られます。
震災への対応だけでも限界的な状況なのにこの学校の非常識にも心が痛み、言葉がありません。

口を開けば愚痴になる、それもつらいので、今日できることを、今日、しようと思ったことを、とにかくやりとげる。

汗をかいて今日も頑張って終わったと、自分で確認、納得する。
それが一番かな。

とにかく、体力を維持し、毎日、今日することがあってそれをやりとげていく。
それが、未来を思うこと、希望につながるのかなと思う日々です。

地震、津波、放射能、おまけにヒ素の流出。
踏んだりけったりの被災地ですが、地元の人たちは、なぜか明るく強いのです。

何なのでしょう。
疲れつつ、気仙沼に行って元気と勇気をもらってきている私です。

元気でいます。
みなさんも頑張ってください。
そして、いざという時の為の備えを必ずしておいてください。