2012年

2012年06月26日

これまでこのホームページを管理していただいていた武田和則さんが急に亡くなられた。「7月にはリュニ―アルします。希望を考えておいてください」と言ってきたばかりだったので、訃報には大いに驚いた。信じきれないので、4月27日と5月1日にも日記を入れたのだが、武田さんからは何の返事もないし、そのうちホームページは止まってしまったので諦めるより仕方はなかった。動いている時は、ここを埋める日のくるのがやたら早くくるような気がしたのだが、動かないのはまた寂しい感じがする。人間、勝手なものだ。

その後、高橋基さんにお手伝いをもらって、やっと元にもどることができた。それでもまだ自分たちで管理はできず、他人頼みだ。早く自立できるようにならないと。

この間にもいろいろなことはあった。その2つ3つ。

今年は文科省助成からもれてしまった。だからと言って、少なくとも3年は・・と始めた「震災と教育研究会」を止めることはできない。金をかけないでつづける工夫をしながら研究の実をふくらませなければならない。

昨日は、戸倉との関係で登米(とよま)に行ってきた。戸倉の避難時に受け入れ側としてどんな動きがあったのかの聞き取りだ。行く直前に助成ペケの通知を手にした。でも、そんなことで止めていられない。2時間ほどの聞き取り、町の人々の善意に満ちた動きの話には、たいへん気分のよい時間を過ごすことができた。

5月26日のシンポジュームの「地域と学校」は80人ぐらいの参加だった。どうしても津波被災地が主になる話ですすんだが、震災による人々の大きな流動の変化のなかで「地域と学校」をどう考えていくべきか、課せられた課題はまちがいなく大きい。ゆえに、このテーマはこれで終わりにできないこともはっきり言える。

2012年05月01日

古本屋で見つけた手塚治虫の「ぼくのマンガ人生」に休日の相手をしてもらった。

そのなかに「すばらしい先生たちとの出会い」の章があり、2人の先生を紹介している。

ひとりは小学校の乾先生。先生は作文の時間には「どんな内容でもいいから、とにかくたくさん書けということで、調子に乗ると、その時間だけでは書ききれずに、家へ持って帰って書きつづけて何十枚になることもあった。『セリフ』をどんどん書き込むことも覚えた。フィクションになることもあった。」と書いている。

もうひとりは中学での美術の岡島先生。「マンガを描くなどとは戦時下に何たること」という配属将校や教師たちから終始かばって「手塚はこれが才能なんだから」と職員室で熱弁をふるってくれることもあったと言う。

読んでいて、この先生たちとの出会いがなかったらあの手塚治虫は私たちのなかに生きることがあったのだろうかなど自分のことまでふくめて思いを巡らした。

手塚治虫の言う2人の先生の話は、現在の教育・教師の在り方を考えるに大事な提起と私は受けとめた。

絶えず耳にする現在の教育現場では、手塚の前の乾先生も岡島先生も、ほとんど「すばらしい先生」と言われる自身のもつ素の生き方は難しいことだろう。それはそのまま、こどもたちもまた自分を伸び伸びと生かしてくれる「すばらしい先生」への出会いの場をもてずに終わるということになるのかもしれない。それでは、あまりにかわいそうだ、子どもが・・・。

2012年04月27日

昨日6時締切りの文科省助成申請書のことであたふたする。なんとかギリギリ間に合わせて深呼吸できたのだが、今朝になって書類1種不足ということの連洛でびっくり。さいわい短い文書だったことで短時間で仕上げて送る。それでも、すっかり1日分の力を使い果たしたように力が抜ける。午後、事務局会議。

今年最初の仕事として5月26日(土)1時からシンポジュームをもつことにする。テーマは「震災を通して考える」

私が仙台に来てからは、多くは学区の境をあまり感じることがないので、「地域と学校」を真剣に考える機会は多くない。それでも、山の分校出身の私にとっては、廃校とか統合のニュースを耳にすると、ただごとには思えない。震災はこれまでにない人口移動をつくり、一気に学校の整理の案が出されてきている。その一つ一つがどうかを論じる前に、「地域と学校」について考え合ってみたいと思ったのだ。

と書いてきて、(さて「地域」の定義は?)とふっと思った。現在の私と「地域」の結びつきがとてもボンヤリしているからだ。広辞苑には「区切られた土地。土地の区域」とある。小学館の国語大辞典も同じだ。辞典では説明のしようがないのかもしれない。

40年ほど前、隣の新設団地にY小が開校するとき、私の住んでいる区域がK小学区から移動する案が提示され、「K小学区を守る会」がつくり大騒ぎしたことがある。結局は押し切られてY小に移ったのだが・・。それから20年後ぐらいに、今度は、同じ地区がどんどんふくらんだY小からK小にもどる案が出されたのだ。それにともなって同じ地に「Y小学区を守る会」がつくられ、また大騒ぎがあった。

このとき私は、仙台に住みだして初めて、地域と学校の結びつきの強さを感じさせられたのだった。

余計なことを書いてしまったが、26日には多くの人の参加によって「地域と学校」がいろんな角度から話し合われることを願っている。

2012年04月19日

知人Kさんのお別れの式に出た。あまりに急だったので帰った今も夢の中の出来事のような気から抜け出せない。

小学校から大学まで一緒だったという友人は別れの言葉の中で、仲間3人の絵画展の出来ないことを悔やんでいた。自分たちを絵画好きにしたのは5年生のY先生だったと言っていた。亡くなったKさんは中学・高校の美術教師でありつづけ、退職後も絵筆を身から離さなかった。

本当に優しい教師だったのだ。最後の高校の教え子代表は、何度も絶句しながら別れの言葉を捧げていた。

一昨日、全国一斉学力テストだった。ちょうど出張から帰ったというTさんが次のようなことを話していた。私は話を聞きながらあまりの事実に言葉が出なかった。

① その県の友人は理科専科教師にされたのだが、理科のテストの結果がよくないということで、今年から専科をはずされたと言っていた。
② その県では単元が終わるごとに「単元テスト」なるものをやっているという。
③ 6年生は、新学年になっても学力テストの前日まで、過去の学力テストの問題と毎日取り組み、やっと新学期になるみたいだ。

聞かされたのはこの3点だったが、もっともっと学力テストにまつわる話はあるのだと思う。あえて県名をあげることは控えるが、これが全国学力テストによってつくられた姿と言える。

「一斉に単元テスト」などということを聞くのは私には初めて。これでは教師は教科書べったりから抜け出せない。それが本当に子どものためになると言えるか。この方式がどこでもとられるようになれば、使用教科書はたとえ違っても「国定教科書」と変わりはないだろう。「教育の創造」などという言葉は現場では既に無になっているのだろうか。わが宮城はどうなのだろうと心配になる。恐ろしいことだ。

これでは「絵の好きな担任だったので絵が好きになった」というKさんのお別れの式での話のごときものはほとんどあり得なくなるどころか、このような教師は学校にとってたいへん迷惑だということになるのだろう。そんな学校でいいのか、ぜひ考え合いたい。

2012年04月14日

今日はサークルの月例会だった。今年で何年になるだろうと古い記録を引っ張り出してみたら、私の在職中の1993年9月にスタートしていた。きっかけは、生活科の教科書「どうして そうなの」「ほんとうは どうなの」の編集にTさんと私が参加し、仲間の多くに協力をもらったその教科書の願いを考えつづけようということだった。この教科書の合言葉は「もともとのことを考える」だから、話し合いは生活科に限らず多岐にわたる。

93年スタートいうことは20年近く続くということで、今や現役よりも卒業生が多い。それでも、若い講師も参加している。一度、会の解散が話されたことがあったが、卒業生からまでも「つづけたい」という声が出て集まりはそのままつづく。私にとっても、ここでの話はセンターの仕事を考えるに大いに役立っているので参加しつづけている。

今日は、センター通信別冊「こども 教育 文化」第1号の「しゅんすけ君のことば」も取り上げられた。編集した者としてはサークルで使われるなんてことさらうれしい。

しゅんすけ君のことばを全部読んだ後に話し合ったのだが、今教育はさまざまな問題をかかえているが、(子どもはこのような心・目をもっているのだ)と教師が自覚して子どもに向き合うかどうかは大きな違いになるのではないかなど種々の話が出された。

今年の1年生にとっても1週間は過ぎた。子どもたちに 幸あれ! と祈る。

4月10日のしゅんすけ君のことば。

おかあさん
がっこうってすごいんだよ
ぼくだけのつくえとね
ぼくだけのいすがあるんだ

おおきなこくばんがあってね
せんせいがいろんなことを
おしえてくれるんだ

おかあさん
じをかくのはね 「こくご」っていうんだ
それからね 「さんすう」は すうじをかくんだ
そとであそぶのはね 「たいいく」っていうんだよ

2012年04月09日

先日、Tさんに会ったとき、「通信66号の高校生の話、たいへんおもしろかった。ずいぶん省略したというが、省略する前の元のものを読みたい」と言われた。このように言ってもらうことは私もうれしいが、あの場の高校生に話せば彼らも喜んでくれるだろう。何にしろ、このように関心をもってもらうことは、枯渇しつつある自分にとっては大きな励ましになる。

なおTさんは「鈴木道太さんは文章がうまいねー」とも言ってくれた。これもうれしかった。別冊をつくろうとした時、道太さんの、この「北方教師の記録」の一部をぜひ紹介しようと思ったのだから。本当はあってはならないはずなのに、なぜこんなにも教師の受難がつづくのか。戦前の教師の場合、道太さんたちはどうしてきたのか。戦前はなにゆえに、そして、戦後の今はどうして・・・。

「北方教師の記録」について少し付け加えておく。「あとがき」によれば、この本の初版は1951年に東洋書館から出版され、1957年に、「鉄窓の回想」を加えて、麥書房から「生きている教育シリーズ2」として1957年に再刊したのである。

道太さんは、「あとがき」の後半部で「わき見もせずに、いのちの燃焼を根かぎりつづけた時代をもつことができたということは、たとえそれが牢獄につきるものであったとしても、いまにしておもえばなんというしあわせなことであったろう。わたくしたちは、人生を二度生きることはできない。」と書いている。

ちなみに、「生きている教育シリーズ1」は宮崎典男さんの「人間づくりの学級記録」である。そして、「人間づくりの学級記録」は今企画中の「戦後教育実践書を読む会」シリーズ第2回の1冊として考えている。

2012年04月03日

朝の連ドラ「カーネーション」が終わった。

途中から見始め、その後は休みなく見つづけた。周りとの会話の中にも「カーネーション」は時々入り込んだ。見ていた人は結構いたのだ。

余計な説明を徹底的に省き視聴者の想像に任せるから冗長にならずテンポがよかった。15分の放映時間とは思えぬほど内容が充実し、脚本家の力に驚くことが非常に多かった。

小原糸子の一代記ゆえに、最後はヒロインの交替があった。晩年を担当した夏木マリの演技を見ながら、若い女優尾野真千子の成長のためにこのチェンジはよかったと思った。一人でやりきったとすると、尾野は自分を振り返ることなく、その評判をストレートに受けとめて終わったかもしれない。しかし、夏木が最後を受け持つことによって役者としての自分のこれからを種々考えさせられたことはまちがいない。

夏木は、別番組で、「尾野の演ずるヒロインの特徴を観察して細部までも違わないように気を配り岸和田弁の独特の発声をも練習した」と言っていたが、話し言葉の間の取り方など私は演技に向う姿勢に感心することが多かった。それらに尾野自身も感じないはずはなかろうと思った。

話はそれるが、元教師の自分のことにもどして振り返ると、自分があの先輩・同僚に出会うことがなかったら・・・と思う人をたくさん上げることができ、それら多くの人との出会いを幸せに思う。

私は人との出会いに本当に恵まれていた。

朝会で折れたドラムのバチをもって、1500人の子どもたちの目をそこに釘付けにして話したHさんの“魔法”を知りたいと思って翌年同学年を希望して1年間Hさんの子どもへの接し方を探ったことなど、何人もの私を育ててくれた人をあげることができる。自分のこんなことを思い出すたびに並の人間は一人では何ほどのこともできないことを強く思う。

夏木は尾野のために演技をしたのではない。しかし、尾野から見れば自分のために晩年を演じてもらったと思うことによって、自分の演技で得たもののうえにさらに大きな収穫を得た「カーネーション」だったと言えるように思う。

2012年02月26日

被災地石巻の高校生に語ってもらった話の録音テープをKさんが急いで起こしてくれた。3月発行「センターつうしん」用なのでその整理を早く進めたいのだが、大苦戦をしている。

限られた通信なので予定のページに収めるように縮めなければならない。それがうまく進まないのだ。

やっと見つけてもらった高台にある平和会館に休日の半日を私たちのために高校生5人が集まってくれた。話が「つうしん」の冒頭に置くにふさわしくうまく展開するかどうか祈るような気持ちで始めたのだが、心配はまったく無用、彼らはこっちの問いに素のままでしゃべってくれ、それらのことばを軽々に削ったり縮めたりができない。女子高生が「オレ」と言っていても、それを「ワタシ」と直すべきかどうかまで考え込んでしまう。「ワタシ」と直すことで全体が壊れてしまうのではないか、ここは、「オレ」がもっともいいのではないかと・・・。

そのうえ、どうしたわけか、文章整理の作業中、あの日のさまざまな5人の所作が現われる。たとえば、話し合いが終わり、「これから、おじいちゃんの家に泊まりに行くのです。このカバンに泊まりのためのものが入っています」と言って、大きいカバンを肩に、自転車で勢いよく坂を下っていったT君の姿が浮かんでくる。このT君の後ろ姿が浮かぶと、とたんに作業が鈍ってしまう。

「センターつうしん」の作業で、こんなに困った記憶がない。

それだけ、この日の高校生のことばの一つひとつが私には予想以上に重く刺激的だったということになるということだろう。

2012年02月19日

天気がいいので久しぶりに古書店・万葉堂に行った。

私は未だに大学の教養課程の留年をつづけているようなもので、本屋に行ってもコーナーは定まっていない。ぐるぐると書棚を渡り歩く。最後まで専門課程に進めずに終わるのだろうと思っている。

帰ると、リュックに詰め込んできた本を広げて、机のそばに置くものと枕元におくものとにふりわける。

今日、枕元組みに入ったものの1冊が「特選随筆歳時記―いつも一行の手紙」(扇谷正造編)。編者は宮城・涌谷出身で「週間朝日」の名編集長として私の記憶のなかにある。

さっそく読む。題名になった「いつも一行の手紙」は作家・玉川一郎の随筆。それはこうだ。

白水社に勤めていたとき、フランスへの注文書の末尾に、「東京は雨が降っている」と何気なく打ってしまった。返事の送り状の末尾に、行をはなして「パリでも同じ」と打ってあった。しばらく「パリでも同じ」の意味がわからなかったが、自分が何気なく打った注文書の文に対するものと気づきうれしくなり、その日の帰りにレストランに寄り、パリをしのび25銭のジョッキを2杯飲んだ。

それから「一行詩」の往復があったが業務縮小で白水社はくびになった。その後を引き継いだ人に届いたパリからの送り状に、「元気を出せ」と書いてあったと聞き、電気にふれたように胸にひびいた、という。

人間にとって言葉とはなんだろう。「いつも一行」でもこんな力をもつ。

玉川は「電気にふれたように」と書いているが、「東京は雨が降っている」を読んだパリの受取人も同じだったのでないだろうか。一人でシャンパンを飲み東京を想ったのかもしれない。

2012年02月14日

10日、K高と共催で、東大の小森陽一さんに、K高3クラスに3時間、その後文芸部員への話90分という通常ほとんど考えられないハードな仕事をしていただいた。学校や生徒がこの日をどう受け止めたかは、今度の「センターつうしん」にTさんに報告してもらうことになっているので、私がどう受け止めたかを書くことはひかえ、そういうことをセンターとK高でつくったことに満足していることだけをお知らせしておく。

11日、石巻の平和会館で、3校の高校生に集まってもらい、1時間半ほど話をしてもらった。宮城水産高・石巻女子商業高・石巻北高から参加の5人。3月発行の「センターつうしん66号」にその報告をするが、早起きして一番の高速バスで行った私は、描いていたこの日の想像を何倍も超える話を5人からもらって帰った。そのもらったものは何か、口から飛び出したいと心は今も騒いでいるのだが、「つうしん」を読んでもらうまでもらさずにおこうと思う。

最近「舟を編む」(三浦しをん)を読んだ。「言葉の海」の世界をしばらくの間心地よく漂い続け、登場人物を肯定的に描いているためか、読み終えても清々しい気分は体から逃げなかった。

玄武書房辞書編集部が辞典「大渡海」の編集に取り組む。主人公は辞書つくりにすべてを尽くす主任編集者の馬締(まじめ)。登場人物は少ないが、辞書つくりの仕事を通して、人が人を刺激し、みな言葉の海を本気でおよぐようになる。ただひとり辞書つくりの外にいるカグヤもいい。

完成祝賀パーテーの日、編集に携わった編集者たちを、「『大渡海』の完成を喜び、だれもが笑顔だ。俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と三浦しをんは描く。言葉に生きている人ゆえにできる描写と言えそうだ。そして、「まじめ君、明日から早速、『大渡海』の改訂作業をはじめるぞ」と年長嘱託の荒木に言わせる。

それが辞書の世界なのだと思いつつも、いいものを目指せばどこも同じなのだとも思う。K高の授業・石巻の高校生の話も「つうしん」に報告して終わりではないと、「舟を編む」はしぜんに自分の仕事にまでつながってきた。

2012年02月07日

日記の間を空けすぎたので、ここ4日間にあったことを列記する。

3日、1時半からのサークル仲間Oさんの卒業授業を見に行く。教材は「ヒロシマのうた」。子どもたちもOさんも大奮闘。見ていて気持ちがよかった。この日のために、これまで2回見に行っていて、そのたびに思いつきの感想を大急ぎでその日のうちに「6年2組のみなさんへ」としてファクスで届けていた。この日の授業を見ていて、その感想が彼らのなかに生かされているような気がして内心うれしくなった(もちろん、自分に都合よく考えているのであり、誰も知らないことだが)。授業後の話し合いが校内の方の参加がなくサークル関係者だけだったのはやや寂しくもったいないと思った。

4日、1時半からセンターで「第4回戦後教育実践書を読む会」。テキストは「未来誕生」(齋藤喜博)。案内人は皆川秀雄さん。皆川さんは、M中学校時代、S校長のもと学校づくりに取り組み、学校に入った齋藤喜博さんの教えを何度か直接教えを受けているし、宮教大時代を含めて齋藤さんをよく知っている中森さんの話も入り、話し合いは「未来誕生」を中心にしながら齋藤さんが何を大事にしたかに広がっていった。参加者は10人ぐらいだがみな充足感を持ってくれたのではないかと思う。第5回は「学級革命」(小西健二郎)で3月31日(土)。案内人は佐々原芳夫さん。

5日、南三陸町戸倉小の3・11の避難時から現在の登米市・元善王寺小間借りまでに関わったたくさんの方々のなかから8人の方に集まっていただき、午後いっぱいの時間、話を聞く。場所、ホテル観洋。それぞれの方の話に、子どもたちを思い、学校を思う気持ちがあふれていた。学校と地域は不離一体であり、容易に統廃合へすすめることの危うさを強く感じさせられた。

翌日の6日、登米市・元善王寺小に寄る。ここに戸倉小と一緒に入っている戸倉中のKさんにお話を伺うため。10時過ぎから12時近くまで。Kさんは、避難時の生徒の働きに驚かされたことを誇りを持って教えてくれた。また、バラバラに住みながら少しも変わらぬ地域の方の支援、そして、今学校のある善王寺地域の人々の応援も事例をあげて知らせてくれた。

やっと落ち着いた善王寺を4月から離れるようになるらしい。それは戸倉小中にとってどこが前進なのかはとうとうつかむことはできなかった。帰りの車の中で何度思い返しても理解には達しなかった。子どもたちや地域の人々は納得なのか・・・。私にはわからないことが、大きな重石のように残ったのだった。

2012年02月01日

今日から2月。月初めの朝、私にはここ6・7年、欠かさずつづけていることが1つある。玄関の額の絵の入れ替えである。ブリジストン美術館の特別展・ザオウーキー展で買ってきたカレンダーの絵12枚を額装して飾り続けているのだ。ありがたいことに日付は小さくうすく刷り込んでいるので絵のじゃまにならず何年経っても変わりなく使えている。

これをつづけることによって私の中に新しい月のスタートが少し意識づけられるというわけ。

朝のバスで読んだ「瓦礫の中から言葉を」(辺見庸)の中に、石原吉郎の次のような言葉が紹介されていた。

「~いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代であってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。~」

辺見によれば、72年に発せられた言葉だという。(2012年も変わらないじゃないか、なぜ?)とバスのなかで自問を繰り返してきた。

昨日、ホームページのための会をもった。参加はYさんとKさんの2人だけ。途中から別用で現われたNさんが入り少し賑やかになる。

センターのホームページは、外からはなかなか入りにくい。入り口が「みんなの声」だけであり、そこは(重い感じをもつのかなあ)というのが一致した見方。また、資料として「カマラード」のもくじを並べているが、「もくじだけで読んでみたいと思う人もいないだろうなあ」ということも出る。とにかく、こちらからのいろいろな働きかけを絶えずつづけることが今やるべきことだろうと結ばれて会は終わる。

今また、石原吉郎の言葉が浮かぶ。

2012年01月26日

数日前のテレビで、被災地の小さい女の子が「早く海のガレキがなくなって、海で遊びたい」と言っているのを見た。聞いて、内心ドキッとした。年端もいかないのに「ガレキ」という言葉をふつうに使うのだ。自分の場合を振り返ってみる。「瓦礫」はいつ獲得した単語か思い出せない。以前にもった単語の一つであることはまちがいなくても、日常的に使った記憶はない。とすると、「ガレキ」について70年以上を生きた私の使用とあの子の使用とは同じ3・11後ということになる。

あの子の場合、ガレキの中で暮らしながら周りで使用する言葉をしぜんに口にするようになったにちがいない。教科書4年生に入っている物語「一つの花」(今西祐行)を思いだした。「一つだけちょうだい」と言えば食べさせてもらえると思い、おなかがすくと「一つだけちょうだい」を繰り返すユミコ。あの小さい女の子の言葉にユミコと同じような痛々しさを覚えた。そして、「ガレキ」なんてことは、あんな小さいときから所有する単語でなくていいのではないか・・と。

広辞苑の「瓦礫」をみた。「①瓦と小石。②価値のないもののたとえ。」とあった。Rさんの授業を見に行った折、机上の小学生用辞典を開いてみた。国語辞典には載っていなかった。当然と思った。もう一種、漢字辞典には広辞苑と同じ「かわらと石」、それに「何の役にもたたないもの」とあった。

私の中で3・11前までもっていた「ガレキ」の意味は、広辞苑のままだった。しかし、今は広辞苑の意味では3・11以後の「ガレキ」の説明にはならない。あの子の言う「ガレキ」はもともと人間が普通もっていただろう広辞苑の意味を超えて、破壊された家や大小の船・流された車・折れ砕かれた立木、それらとともに生活必需品までを含めたありとあらゆるものが入っているだろう。とすれば、「ガレキ」のなかには「価値のないもののたとえ」とか「何の役にもたたないもの」などという派生する意味はまったくないはずだ。

あの子の何気ない話から、3・11が私たちからはぎとり、変えたものは、決して日常の生活だけではないということになることを強く思わされた。

2012年01月23日

21日、「ホームページを見ていたら、運営委員の一覧中、所属欄の『宮城~』が『営城』になっていました」という電話をいただいた。開いて見るとそのとおりだったので、すぐ訂正をした。つい片手間な仕事になってしまっているホームページの扱いを恥じるとともに、お名前を伺わなかったが、お気づきのことを面倒がらずお知らせいただくというセンターへのお心遣いに感謝し、たいへんうれしい気持ちになった。

来年度からは変わるが、研究センターは決して安いとは言えない会費で400人を超す方々に支えていただいている。そのうえ、会費をいただくだけでない、有形無形の応援をもらいながら存在できているということをいろんな場で感じさせられている。

私の教員生活は、どうしても子どもと同じ目線に立つことができず、とうとう「教え屋」を少しも身から剥がすことができずに終わってしまったことを未だ慚愧に思っている。しかし、研究センターの仕事をやらせてもらうことで、たくさんの方々に支えられずには何事もできないことを実感する日々を送ることで、己の身が少しずつ洗われ救われているように感じている。

今通信66号の仕事に入っているが、この号では被災地高校生の声を載せたいと考えた。考えてはみたものの自分の力では高校生を集めることはまったくできっこない。いつものことだが、高校のHさんに助けを求めた。Nさんにも頼んだ。なんと、みんな二つ返事で協力してもらえることになった。会場探しはKさんにお願いした。Hさんには、「見つからなければ我が家を使ってもいいよ」とまで言っていただいた。うれしいかぎりだ。こんなに応援をしていただいて、この企画の失敗はできないとプレッシャーは強くなっているが。

2012年01月17日

「かすかな光へ」上映実行委員会の閉めの会を16日もった。

実行委員のひとり東北大生3年のS君は、「ぼくは就活のため映画を観ることも大田先生のお話をきくこともできませんでした。この当日の感想を読むと、就活のために東京に行くことを止めればよかったと思いました」と言った。

実行委員会は解散になるが、S君の言葉を受けて、今後東北大での上映会をつくることを勧め、協力することにした。S君は喜び、学内に実行委員会をつくり取り組むことの抱負を述べた。同席していた若い保育士のHさんも、「あの日、観たいと思いながらも仕事で来れなかった同僚もいたので・・・」と再上映を歓迎した。2人の願いはまちがいなく実現するだろう。ひとつの会の終わりが次を生んだことになる。なんと気持ちのいい閉めの会か。

話は飛躍するが、私は、小学校(正しくは国民学校)の2・3年の頃、家の書棚にあった国語読本の中の「松坂の一夜」を読んで、賀茂眞淵と本居宣長の対面している挿絵まで今でも覚えているが、この意味はほとんどわからなかった。

大学の入学式のとき、哲学者・高橋里美学長の話を聞きながら、しだいに体が締まってくるように感じ、大学という特別の学びの場に身をおくことになった自分を強く意識させられたことを思いだした。話の内容は今まったく記憶にないのだが。

おおげさな言い方をすれば、この入学式が私にとっての「松坂の一夜」だったかもしれない。本居宣長にとってはこの夜だけだったのかどうかわからないが、私にとっての「松坂の一夜」は高橋里美学長以後も数え切れないほどあり、そのたくさんの出会いに支えられて今の自分がある。

こんなことから推しても、就活を止めても映画を観たかったと後で思ったS君が、「かすかな光へ」を鑑賞する場を自分でつくり、多くの仲間や1・2年生にもぜひ働きかけると言ったことを私はうれしく思う。そして、84分の映画だが、S君にとっての「松坂の一夜」になるにちがいない。もちろん、そこに足を運んだその他の人たちにも。

2012年01月12日

昨夜のNHK・クローズアップ現代のテーマは「テレビ時代劇の激減」だった。そこで初めて知ったのだが、理由のひとつとして「時代劇視聴者は高齢者が多く、購買力が弱いので時代劇にスポンサーがつかない」ことと言っていた。確かに民放はスポンサーがつくことで放映できることを考えれば当然のことであり驚くに値しないことかもしれないが、私は複雑な気持ちになると同時に、どんな番組にもお笑いコンビが登場している理由と同根であるなとも思った。聴視料で放映しているNHKまで似通ってきている理由についてはわかりかねるが・・・。

番組を見ながら、(そうか、すべては視聴率で番組が編成されているのだとすれば、視聴者としての自分はテレビを見るときも試されていることになるから、よほどしっかりしないと、文化の衰退に加担していることになるのだ)と思ったりした。

私はあまりテレビに近い生活でない方になろうが、関連して2つの番組を思い出した。一つは、TBS土曜夕方の番組「報道特集」。これは何十年と続き、キャスターは代わってもほぼ同じスタイルを頑固に守っているように見える。奇跡にも近い番組に拍手を送りながら今も見続けている。

もう一つは、数日前のNHK放映の池袋と被災地を結ぶ高速バスにまつわる番組。長い時間をかけて人を追い続けてていねいにまとめあげていた。池袋で被災地に向う人の中から、店の再開を望んでくれる人たちに押されてクリスマスに開店したいと東京に用品を買いにきた若いTさんをつかむ。もうひとりは、毎年末帰省し母と叔母の営む居酒屋で近所の人たちと過ごしつづけていたというHさん。実母は亡くなったが、叔母に店を開店させていつもの大晦日にしたいと願って店の再建を手伝いに行くために何回も夜行バスに乗っているという。

それから師走。24日、ケーキ店には見事なクリスマスのケーキが並び、店いっぱいの人々の顔はほころんでいた。Tさんの顔ももちろん。31日、居酒屋は賑やかだった。店主の叔母さんははりきりっぱなしで、その後ろには笑顔のHさんがいた。

高速バスの運転手のKさんは仮設に住む。夜行バスの利用者の何人もと顔見知りになる。

画面の一コマ一コマに制作者の人間に対する温かさを感じ、見終わっても被災を越えて生きる人たちの強さと温さを私の体に残してくれるものだった。

時代劇の問題はいつの間にか別の方にずれてしまったが・・・。

2012年01月06日

みなさま、私たち研究センターのこと、今年もよろしくお願いいたします。

退職してしばらくの間 歳を重ねることは心中穏やかでなかったのですが、今は、その動揺はすっかり消えてしまい、心静かに新しい年を迎えました。それでも今年は、去年につづいて、どう生きるか自分で自分を試す年になるだろうなあという気持ちになっていることではいつもと違っています。

5日は宮城民教連の冬の学習会に参加しました。第57回なそうです。よくぞつづいているものです。

きわめて静かな集会でした。何しろ、もう新学期が始まっている学校があるというのですから、参加希望者で何人もの断念者がいたのでしょう。会場だけでなく廊下を歩いていても参加者の熱気の伝わってくるのがいつものことであり、そこに新しい年あけを毎年感じてきていたので、寂しさは隠せませんでした。

そんなことを言いながら、最近は参加の是非について毎年悩むようになっているのです。学校を離れて時間が経つと、自分のクラスのことを話せないので発言することに勇気を要するようになり、しゃべっていてもどう聞いてもらっているかがひどく気になるからです。発言を控えるように努力はするのですがつい口を開いてしまい、その後どうも味のよくない気分を繰り返しているのです。

今年も自分に鞭打って参加したのですが私にとっては収穫があり、参加してよかったと思いました。教室のことを聞くのは現場を離れてもワクワクしてきます。直接的にも、研究センターのこれからを考えるために参加してよかったと思いました。

私にとっての今年1年は、今年もまちがいなく冬の学習会から始まりました。