2011年02月24日
23日朝日新聞「声欄」に尾道市の岡野幸枝さん(農業)の「数字だらけの歌の意味解けた」が載った。その内容は、1月の朝日歌壇の賞作品「六二三 八六八九八一五 五三に繋げ我ら今生く」についてだった。
私もこの作品を目にしたとき、いつになくしばらくの間見つめ考えつづけたのだった。
投書の岡野さんは、その日以降も復読して、初めの「六二三」だけがとうとうわからず、パソコンで検索して初めて沖縄戦終結日ということがわかった、というものであった。
しばらく見つめつづけた私は、なんとなく(あ、そうか)と思い、次の句に目を移し、それを何かで確かめることなくそのまま終わっていたのだった。
岡野さんは、この投書の文を「終戦65年が過ぎると平和ぼけの症状が甚だしいのだろうか。今でも基地問題で戦後を引きずっている沖縄の人たちにとって重要な日を失念していたことを、おわびしたい」と結んでいた。
確かめもしなかった私、パソコンで調べ失念を「おわびしたい」という岡野さん。私より10年も長く生きている岡野さんの年齢「84」の数字が私には特別に輝いて見えた。
2011年02月20日
18日、Yさんの“卒業授業”があった。この授業は、3月退職予定者が長い間一緒に学び合ってきた仲間に最後の授業を見てもらうというもので、もちろん本人の意思による。退職を間近にした年度末、余程の覚悟を要する。それでも、授業に生きてきたたつもりの上がりゆえに多忙を厭わず挑戦しようとする仲間はいる。Yさんもそうだ。授業後は参加した者たちで授業検討会はきちんともつ。その検討が現職にある仲間に遺すもののあることは言うまでもない。忙しさを押して取り組むわけもこの点にあると私は思っている。Yさんの授業に校内の若い先生たちも見にきていたが、話し合いには参加しなかった(できなかった?)。授業の善し悪しを問題にするのが目的でないだけにやや残念に思った。
“卒業授業”が私たちの中で始まって30年近くになるから、その間、それに関わってもいろいろなことがあった。
Wさんの授業を見せていただくことを校長に正式に頼みに行ったことがある。許しを得ることができず再度訪問したが、最後にA校長が口にしたことは、「組合に協力したと思われたくないからダメ」だった。組合とは無関係なのだがどうしてそうつなぐのか、そして、誰に思われたくないのかはわからなかった。仕方なく、私はWさんへの私的な用事をつくって後日学校を訪問、そのついでということで授業を見せてもらったことがあった。
Mさんの授業についてはこうだった。こちらの話を聞き終わったK校長は、「大学では最終講義がありますが小学校にだって最終授業があっていいですよね。みなさんのご計画でどうぞおすすめください。その時は、ぜひ私の学校の職員にも参加させてください」と。
他にも何校か同じことで学校を訪ねたことがある。校長の対応はすべて違っていた。A校長のような方にはさすが出会わなかったが、K校長のような方もいなかった。この違いは何からくるのだろうか、未だ私にはわからないことだ。
2011年02月15日
12日の朝日新聞に舞踏家天児牛大さんへのインタビュー記事が載っていた。舞踏家としての自分を話しているのだが、考えさせられる言葉で埋め尽くされていて、読んでいくうちにしぜんに背筋が伸びてくる感じだった。
そのなかから、「自分のジャンルには関わりのない物事からこそ汲むべきものがある。すべてをトータルにとらえ、自分という器にいれこんでいかないといけない」「土方巽のところには、文学、俳句、絵画、映像、音楽、彫刻ありとあらゆる芸術家がいて、酒を飲んでは激論し、それを必死に自分の創作につなげてゆく。創作に向かう人々のいろんな姿を見られたのは大きな糧になった」と・・・。
私は、現職の折り返し近く、職場を離れて3年間、教職員組合の教育文化部担当だった。現場を離れることに迷いはあったのだったが、それ以降の仕事のために無形のものをたくさん得ることができ、今もあの3年がなかったら自分の後半はどうだったのだろうと考えることがある。もちろん、多くの教師仲間と出会うことで得たものは少なくなかった。しかし、何よりも大きかったのは教師以外の職種の方々との出会いから得たものだ。それらの人々はたとえ教育を語ってもいつも私の中につくられている常識を揺さぶるものだった。そのたびに私は、自分のなかで固まっている常識を疑うことを迫られ、壊していかざるを得なかったことが何度も何度もあった。その出会いによって私の狭い教師根性の問い直しを迫られるゆえに初めはずいぶん苦しかったが、いつの間にか体にいろいろな風が吹き込むことにむしろ快感を覚えるようになっていた。
舞踏家は「集中とだらしなさ。空っぽにならないと新しいものを入れられない」とも言っていたが、教師に自分を空っぽにする場や時間はつくれるだろうか、新しいものを入れる余裕はあるだろうか・・・と元教師の私は今を心配になってくる。
2011年02月09日
私は、教職に就いて4年目に同じK郡内の中学校に移った。1学年4クラスで学年主任はSさんだった。Sさんは静かな方だったが職員室の机が隣で、同学年の社会科を分けて受け持っていたこともあり、いろんな話を聞かせてもらった。
工業学校を出たのだが、新制中学が発足したとき校長の勧誘で教師になった。ある日、生徒が土器のかけらをもってきたのだが、工業出の自分にはそれについて何も答えることができなかった。しかし、せっかく持ってきた生徒に対してこのまま「わからない」で済ましてはいけないと思い、その土器のかけらを持って東北大学の考古学研究室を訪ねて教えてもらった。同時に教師としてのこれからを考えて、しばらくの間、放課後、研究室に通いつづけたとのことだった。(当時、教師の学びはやる気さえあればそのようなこともできたということになる。)
私が出会ったときは、K郡内の遺跡調査を自分ですすめていた。後年、郡内遺跡調査の中心になって働いた。
生徒の持ってきた土器のかけらを「わからない」とそのままにしなかったSさんのことは今になっても時々思い出す。いい加減さのなくならない自分への大きな叱咤になるのだ。
私も遺跡調査に誘われて何度か一緒したことがあった。ある時は、なんと前任校の学区内にある円墳の調査だった。私は3年間もそこにいて、その円墳の存在をまったく知らなかったのだ。それはもしかすると私だけでなかったのかもしれない。
2011年02月03日
「モンスターペアレンツ」という文字がよく目に入る。今自分が現職にあれば大きな的になったかもしれない。そう言う私はたくさんの親に育てられたと今も感謝でいっぱいだ。その例として、大事にしまっている親からの手紙を紹介する。(Y・Aは私が直したもの)
授業参観に一言
朝元気に出かけた娘が11時過ぎしょんぼりして帰ってきました。私は咄嗟に「何か失敗したな…」と感じました。「もう終わりだ・・・先生に怒られてしまった。お父さんもきっといやな思いをしたよ。帰ってきたらきっと何かいわれるかもしれない・・」と不安そうな顔。
訳を聞くと、グループで文化について調べ、それぞれ順序に発表するはずだったのが、6班は一番最後で時間がなくなり、先生に手短に発表するようにと言われたので段取りしておいたことが思うように発表出来ず、とうとう先生を怒らせてしまったとのこと。
講演を聞いて帰った主人に様子を聞くと、「先生の怒るのも無理はない。全然まとまりのない発表だった」とのこと。私は「Y子には何も言わないで。すごくがっかりして帰り、二階の部屋に入ったきりだから・・」と頼みました。3人でお昼を食べてる最中、主人はやはり何にもいわないのも・・と思ったのか、「Y子・・もう少しちゃんと調べておかないとだめだよ。あの授業の前に先生は2時間も時間を与えたそうじゃないか」とちょっぴり言っただけなのに娘は涙をボロボロ流して泣いてしまいました。滅多に人に涙を見せたことのない娘なので、それっきり主人も口を噤んでしまいました。
娘の涙を見て私は感じました。先生の目からは努力した様子は見られなかったかもしれないが、勉強嫌いのこの子が、ここ数日、百科事典を出しいろいろ調べたりしたが失敗に終わり、しかも年一度の日曜参観日にそれも滅多に行ったことのない父親の前で怒られたということは、理由(自分の努力の足りないことを棚に上げて)はどうあれ涙が出るほど情なかったんじゃないかと思いました。父の日の夜に楽しく授業参観のことが親子でしゃべれる授業であってほしかったと思いました。
人間とはエゴなもので子供も親もこれがまた、自分の子供の班でなかったなら、先生の怒ったことにも笑い話としてしゃべれたかもしれません。私はその場にいたわけでもなく、また、その場の様子が分からず、何もいわれないかもしれませんが、大きな目ではなく、自分の家で感じたことを書いてみました。いつも家では嫌なことは早く忘れよう、前進、前進・・の主義なもので、娘も今日は4時過ぎ、「ただいま」の声も一段と高く、人形劇の楽しかったことを一気にしゃべりました。「よかった」・・私は本当にそう思いました。 (まだつづきますが長くなるので、以下は略します)
6月16日 A
このように本気で話し書いてくる親に私は幸せにも多く出会えた。
教室の班は便宜的に私がつくったものであり、その構成員は個々の人格をもった子どもたち。班内のB男やC男のいいかげんさを見過ごすことができず「班」を叱り、それがY子を悲しませた。「班」はその後も教室で使ったが、個と班についての意識は私の中で確実に変化した。Aさんのようにその時々を率直に話してもらうことは教師になっていくためにどんなにうれしいことか。