2011年6月

2011年06月29日

被災の聞き取りに臨床教育学会の田中孝彦さんたちと亘理・荒浜小を訪ねたのは4月26日だった。震災から45日目、隣校になる逢隈小学校でようやく新年度をスタートさせた日だった。

NさんとWさんからお話を伺い、その大要は「センターつうしん63号」に報告してある(このホームページにも入っている)

話を伺った後でいろいろな質問が出たのだが、その一つに「今一番欲しいものは何ですか」というのがあった。それに対してNさんとWさんは口をそろえて「お金です」と言った。2人は、「年度末のこの震災。給食費など学校への納金が済んでいない家庭がありますが、こうなってはとても請求などできないからです」とその理由を付け加えた。

私は、学用品とかの物資がいろいろ上げられるのだろうと思っていたので、「お金です」には内心驚くと共にその理由を聞き、そのことをまったく想像できなかった元教師の自分を恥ずかしく思った。

震災と教育のことをよく話し合っているMさんが最近、「あの時のお金の話だが、それぞれの学校はどうしたのかなあ」と会うたびに言う。時間が経つに従って気になるというのだ。

被災地の学校は、本当にどうしたのだろうか。私の知る限り、公立学校ほど自由になる金などないと思うからだ。Mさんが繰り返し「どうしたのかなあ」というのはそういうことなのだ。まさか被災家庭に請求するなど鬼のようなことは考えられない。

今日も2人で、「どうしたらそれを知ることができるだろうか。これからのためにもぜひ知りたいものだ」と話し合ったが、よい知恵はうかばなかった。

2011年06月23日

今日は毎年巡ってくる沖縄「慰霊の日」。前々日の21日には、日米閣僚会合で普天間移設を先送りして辺野古V字滑走路で合意したと報じられた。沖縄に集中する基地問題は何も進まない。

今日の「天声人語」に沖縄とナポレオンの話が載っていた。「~沖縄には武器がないという話を、ナポレオンは理解できなかったそうだ。『武器がなくてどうやって戦争をするのだ』『いえ、戦争というものを知らないのです』『太陽の下、そんな民族があろうはずはない』とナポレオン」。

もちろん、ナポレオンを紹介する話ではない、沖縄はもともとどんなところかということを語っているのだ。しかし今や、その、「戦争というものを知らない」沖縄は日米安全保障の名で基地の島となってしまっている。しかも、そんな民族があろうはずはないと思っている「ナポレオン」が日本人でも多数なのだろう。海外に自衛隊を送り、「本土」という名で沖縄に基地問題を押しつけた格好で半分知らん顔をしているのだから。

1951年に「死の商人」(岡倉古志郎著)が出版されたとき、大学生だった私は、若い憲法学者のKさんから紹介され、まず書名に驚き、その内容に驚いた。その後岩波新書で改訂版が出た。その改訂版で岡倉は、「戦争=死の商人=資本主義の発展」と書いているが、ちょうど半世紀前、この図式はいっこうに変わっていない。

まちがいなく自分も入る問題なのにヒョウロンカふうの書き方しかできない自分自身がもどかしい。

2011年06月19日

この頃ひっきりなしに見る夢はなぜか教室に立っている自分だ。昨夜は、大騒ぎをして暴れ回る子どもたちを必死に制止しているのに、どういうわけか、親まで大勢加わり私は隅の方に追いやられていた。

教室の夢での自分は一度も満足な教師の姿はない。私に残された時間が少ないゆえに、教職時の悔恨の情だけがふくらんでくるからだろうか。こんな夢を見たからといって、それで償いになるわけでもないし、子どもたちに許してもらえるわけでもない。自分ではある程度リキを入れて取り組んだつもりでも、エラーの思い出は数えきれない。

最近、「数字と踊るエリ」(矢幡洋著 講談社)を読んだ。帯には「自閉症と言われたわが子が家族の力で驚異的な成長をとげるまでの9年間の記録」とある。

就学時検診の結果、「特殊学級への進学を推奨します」という通知に愕然とする臨床心理士の著者。悩んだ末、特殊学級推奨を断り普通学級に入れる。

私はこの冒頭の部分で、かつてのA君を思い出した。A君の中学進学を前に、考えた末、「中学は教科で教師も替わるし、他の小学校からの仲間と一緒になるし、特殊学級でゆっくり暮らさせたらどうでしょう」と母親に言った。その瞬間、サッと変わった母親の顔色は今も鮮やかに私の中に残る。

「特殊学級に」という薦めを臨床心理士でさえも抵抗がありすんなりとけ止め得ないことを、私はあの時、よかれと思ったとはいえ、母親に言ったのだ。この本を読み終えるまで、私の中でエリはA君と絶えずダブった。私が固定的に考えていた自閉症を、著者は超人的な努力によって、エリを感情表現ができるまでにしてこの話は終わる。

読み手の私は素晴らしい事実に驚き、ホッとしながらも、A君を自閉症と決めつけ、安易な心遣いで必死に子育てをしている母親を悲しませる言葉をはき、A君との毎日をつきあい以上の何事もしなかった己の中の悔いは大きくなるばかりだった。

昨夜の夢にA君の姿はなかったのだが・・・。

2011年06月14日

7月2日(土 1時~4時半)、フォレスト仙台2F会議室を会場にして、「みんなで語り合いませんか ― 震災体験から 地域・学校・子どもたちを」の集いをもつ

3・11に関する事実、それらに関わる想いを、参加者のみんなで語り合いたいという願いから企画したものだ。

事実を、そして想いをそのまま語ると言っても、その重さを考えると、言葉にすることは決して楽なことではない。だから、集いをもつことを危惧する声もあった。辛いことをわかっておりながら、何でそんな会をつくるのかと問われると前述の願いのみなので苦しい。

それでも私は集いをもちたいと思う。厳しさを乗りこえるために、言葉のもつ力を信じ寄りかかりたいと思う。人と人とをつなぐ言葉の力に今だから頼りたいと思う。

被災地を一緒に聞き取りをして歩いた田中孝彦さん(臨床教育学会代表)は、後日インタビューを受けた新聞記事の最後を次のようにむすんでいた。

教師たちの震災体験の語りを聞くこと。
彼らとともに、彼らのこの間の働きの意味を確かめること。
彼らが教師として働き続けられる条件を考えること。
地域の再建と学校の再建とを結びつける「復興」の道を探ること。
教師、住民、他領域の専門家たちが、共に考えるための言葉を紡いでいくこと。
これらに、私は、臨床教育学に携わる一人として、時間をかけて取り組みたいと考えています。

と。

上にあげられている5項目を今後私の中でも大事にしたいし、集いの中でもこれらに関することがたくさん出されることを期待している。あまりに大きな問題に取り組むので今度だけで終わりにしたくないとも考えている。幸い、田中孝彦さんは7月2日の集いに参加してくださるし、現地に入った他の学者も参加するというので、これからに示唆するものが多くの人の語らいによってつくれるのではないかと秘かに期待している。

2011年06月11日

あの日から3カ月目。久しぶりに生活科サークルの集まりがあった。3月の例会が翌日の12日に予定されていたのだから、ちょうど3カ月ぶりの顔合わせになる。案内係のOさんから3日前に案内ファクスが届く。

3月11日に起きた大震災から3カ月。未だに、その爪痕の多くが残されたままです。生活科の例会は、今月になって会場を確保することができました。例会に参加の皆さんの近況はいかがでしょうか。

と書いてあった。

いつ再開するのだろうと思っていたのだが、会場の市民センターが今まで使えず、休んでいる間に仲間の新学年がとうにスタートしていた。

集まってしばらくは、堰を切ったように「あの日」のこと、「あの日から」のことが語られる。何しろ3カ月ぶりなのだから。

しばらくしてそれぞれの新学期が語られ出す。今日集まったメンバーで職場の異動は若いKさんだけ。Kさんは、「去年まではガクシュウインの子どもたちだったが、新しい学校の子どもたちはまるっきり違う」と、子どもたちの日々の事例紹介。なかなかの子どもたちだ。

しかし、Kさんの話しっぷりはまったくグチに聞こえない。しかも、「それでも、今のところ、教室に向かう時は、スキップしながら行っています・・・」と。聞きながら(いいセンセイだ!)と思う。

帰り際に、「次からの報告を楽しみにしているよ」と浴びせられ、「はい!」と元気に応えてKさんは車に乗り込んだ。

歳を重ねるほど、自分の教室を語れぬことの負い目と先輩面をしてしゃべっている自分に気付いた時の厭らしさでどうしてもサークルに出るに足が重くなっているのだが、Kさんのような若い人からもらう力は大きい。

2011年06月04日

この頃、なんとなく気分がすっきりしない。他人のせいにするわけではないが、その因のひとつは、テレビから耳に入ってしまう、あの実にあきれた政争(?)のような気がする。この調子ではいつまでもつづくのだろう。彼らにはもう期待はすまいと思っても聞こえてくるのだから始末に負えない。自分にとってはこの上ない迷惑、人災だ。

精神科医の中井久夫さんが、阪神震災50日間の記録に「東日本巨大災害のテレビをみつつー3月28日まで」を加えた「災害がほんとうに襲った時」を出している。

その3月26日の記録の中に、次のようなことを書かれている。

私は外国人の疑問に対して、日本人は「無名の人がえらいからもっているのだ」と答えてきたが、これは外国人といえども認めるのにやぶさかではないようだ。無声映画をみているほど静かなのは東北の人ならではのことかもしれないが、大阪人も大阪人なりに考えているようだ。

神戸の震災でも、震災直後からとっさの智慧を働かせ、今この状況の中で自分に何ができるかを考えて、臨機応変に対応した無名の人々を挙げることができる。

中井が言うように「日本人は無名の人がえらいからもっているのだ」と私も思いたい。

そうでないと、口からとびだす言葉は「国が」「県が」「市が」が先になってしまうし、テレビ・新聞からのイライラはつづくだろう。確かに、間もなく3カ月になるが、その間に、無名の人々の数えきれないほどのすばらしい事実が伝えられ心を揺さぶられた。

中井は、「今回でも、世界は少し賢くなると思いたい」とも言っている。そうだ、私たちが少しでも賢くなることだ。