2011年1月

2011年01月27日

3月で退職するサークルの仲間Yさんの最後の授業づくりの話し合いに参加した。この連絡を受けてすぐ思い出したのは十数年前のことでありながら、なお昨日のことのようにこびりついている私の場合だ。たくさんの仲間が集まってくれたのに検討に値しないめちゃめちゃな授業に終わったのだった。子どもたちは私のために張り切ってくれるのに、私は、卒業を意識しすぎ、敷いたレールを歩ませようと懸命になってしまったのだ。卒業する時になっても、子どもたちより周りの他者への意識が強く、辞めるまで子どもの側にきちんと寄り添えない教師だったということだ。思い出すといまだに冷や汗が流れる。

こんな自分を思うとき決まってMさんの場合を思い出す。授業の途中、自分の意が通らずへそを曲げた2年生のK男が座席を離れて動き出した。参観者が大勢いる中だ。Mさんは授業を中断、K男のところに歩み寄りなだめにかかった。間もなく授業は再開。K男は何事もなかったように授業に参加して卒業授業は終わった。あのような時私だったらどうしたかと、以後よく思う。参観者がおるなかの最後の授業の中断を恐れ、K男をそのままにして授業をすすめただろう。しかし、Mさんは迷うことなくK男をなだめるほうをとった。そうしたMさんを(本当の教師だ)と私は今も思い、尊敬の念はそれまで以上に強くなった。

卒業授業は自分にとって最後の仕事であるが、子どもとの関係でいえば日常の仕事の1時間である。1時間の流れの中で、瞬時にどんな動きをするかは、まさに日常の教師のそのままの表れであろう。この日のMさんの自然な動きは忘れることができない。と言いながら、自分は、日常を超えようと意識し、無残な姿を見せてしまったのだ。これも自分の「日常」の結果であるとしか言いようがない。

Yさんの授業づくりのことには触れないでしまった。

2011年01月24日

昨日は、Kさんのお別れ会だった。私もお別れのことばを読ませていただいた。宮城の民教連の代表をKさんから引き継いだ関係もあり、Kさんとは本当に長い間の付き合いだったので、お別れに何を話すべきかいろいろ悩んだ。Kさんほど歯に衣着せぬしゃべりをする人は少ないのでぜひ話したいと思ったが、それを知ってもらうには限られた言葉ではたいへん難しく、残念ながらほとんど外した。それにしても、Kさんのような人が自分の周りからどんどん姿を消していく。と言いながら自分は、いろんな場で言うべきかどうかで悩んでしまうことがあり、そんな自分がしょっちゅう嫌になる。

60年代の初めまで、木造の教育会館は、教育文化運動に熱心な現場の仲間・学者・市民のたまり場だった。その場はいつも火花を散らすような議論がつづき、Kさんもその中にいた。若い私は火の粉を浴びないように少し離れて眺めていたが、そうしているだけでも、自分が豊かになっていくような気がしたのだった。

ずいぶん後のことになるが、Kさんと一緒の合宿研究会に参加したことがあった。会の後に、Kさんや私について、「若い人が、レポートについてあんなに言われるのでは会に出たくないと言っている」と言われたことがあった。その後再びその会をもつことはなかった。

いろんなことを斟酌しながら生きることはたいへん疲れる。自分はできないだけに、Kさんの貫いた生き方を本当にうらやましいと思う。

2011年01月17日

恒例のセンター新春講演会は、いくつかの事情が重なり2月5日になった。講演は三上満さんにお願いし、演題は「わが心の宮沢賢治」。

三上さんの東京大学教育学部の卒論が宮沢賢治だったというからまず驚く。しかも三上さんは中学校社会科教師生活につづき労働組合の要職に長年ありながら宮沢賢治を少しも体から離さなかったのだからこれまた驚く。

2002年に発刊した「明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治」のまえがきで「少年の頃、宮沢賢治という人と出会ってから、ほぼ55年という歳月が流れた。その間に賢治に心酔し、とりこになり、やがて離れ、反発し、そしてふたたび新たな賢治と出会い、生涯の友となるという、ふしぎな、しかし賢治を愛する人たちによくある心の旅を私もたどってきた。」と三上さんは書いている。

こんなに生涯離れられないほど好きになるということはどういうことなのか。玄侑宗久の書く「宮沢賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる澱のなかに入っていくようなものかもしれない」が目に入ったりもし、三上さんの賢治ワールドを知りたく今からワクワクしている。この歳になってと笑われそうだが・・・。

2011年01月11日

前回、宮城民教連の冬の学習会にふれて「ひとり一人に少しでもよい仕事をしたいという気迫は?」と書いた後で、あれは間違いではなかったかと気づいた。自分が萎えてしまって周りの熱気を感じなくなった故なのだと思い当たり、大いに恥ずかしくなった。

私が先輩に連れられ初参加した白萩荘での集会は今の半数ぐらいの参加者だったが、それらの人々のかもしだす雰囲気はふだん学校で感じるものとは大違い、私は目や耳にする一つひとつに終始舞い上がり、その後そちこちをのぞき歩くようになったのだが、知らぬ間に自分の体からその勢いが消え去っていたのだ。

3連休の1日目会ったYさんから、仙台の私学にいるフィンランドの高校生の話を聞いた。中学で日本語に興味をもって勉強し、とうとうその日本に来ているとのこと。フィンランドは私たちの間では特に「学力」の高さで話題になるが、Yさんの話す高校生の話を聞きながら、学力で取り上げているフィンランドの教育は根っこの部分をはずして論じ合っているのではないかと思った。そのうちYさんにその高校生のことを詳しく書いてもらい、考え合ってみたい。

2011年01月07日

5日・6日と宮城民教連の冬の学習会があったので、今年のセンターは今日からの事初め。

冬の学習会は56回目。この学習会がスタートした時、既に教職員組合の教育研究集会は始まっていたが、参加者が自分の学びのために手弁当で集まり出して、それが休むことなく56回もつづいている。

私の参加を振り返っても、仙台白萩荘・鳴子温泉・仙台西花苑・松島大観荘と会場が転々とし、現在の仙台茂庭荘に落ち着き、しばらくつづいている。集会日は1月5日6日と決めてあるので、現役時はいつもこの学習会が終わって初めて新しい年という感じだった。

すべてを参加者の会費で運営する会なので安く済むことが第一条件となる。特別安い宿泊場所を見つけたと思って喜んだ仙台西花苑が夜になって全館停電。部屋まで雪が吹き込み寒さを堪えて一晩過ごしたことから、「少しは出し前が増えても暖かい所で」という声が出て安い所という条件はその後緩やかになったのだった。

今も身銭を切っての参加はつづくが、全体の雰囲気はずいぶん違ってきたように思う。それは決して悪いことではない。でも、ひとり一人に少しでもよい仕事をしたいのだという気迫はかつてとはどうだろうか・・・。

いずれにしろ、この2日間の集会への参加は、センターの年明けのために充分な助走となる。

今年もよろしくお願いいたします。