2012年04月27日
昨日6時締切りの文科省助成申請書のことであたふたする。なんとかギリギリ間に合わせて深呼吸できたのだが、今朝になって書類1種不足ということの連洛でびっくり。さいわい短い文書だったことで短時間で仕上げて送る。それでも、すっかり1日分の力を使い果たしたように力が抜ける。午後、事務局会議。
今年最初の仕事として5月26日(土)1時からシンポジュームをもつことにする。テーマは「震災を通して考える」
私が仙台に来てからは、多くは学区の境をあまり感じることがないので、「地域と学校」を真剣に考える機会は多くない。それでも、山の分校出身の私にとっては、廃校とか統合のニュースを耳にすると、ただごとには思えない。震災はこれまでにない人口移動をつくり、一気に学校の整理の案が出されてきている。その一つ一つがどうかを論じる前に、「地域と学校」について考え合ってみたいと思ったのだ。
と書いてきて、(さて「地域」の定義は?)とふっと思った。現在の私と「地域」の結びつきがとてもボンヤリしているからだ。広辞苑には「区切られた土地。土地の区域」とある。小学館の国語大辞典も同じだ。辞典では説明のしようがないのかもしれない。
40年ほど前、隣の新設団地にY小が開校するとき、私の住んでいる区域がK小学区から移動する案が提示され、「K小学区を守る会」がつくり大騒ぎしたことがある。結局は押し切られてY小に移ったのだが・・。それから20年後ぐらいに、今度は、同じ地区がどんどんふくらんだY小からK小にもどる案が出されたのだ。それにともなって同じ地に「Y小学区を守る会」がつくられ、また大騒ぎがあった。
このとき私は、仙台に住みだして初めて、地域と学校の結びつきの強さを感じさせられたのだった。
余計なことを書いてしまったが、26日には多くの人の参加によって「地域と学校」がいろんな角度から話し合われることを願っている。
2012年04月19日
知人Kさんのお別れの式に出た。あまりに急だったので帰った今も夢の中の出来事のような気から抜け出せない。
小学校から大学まで一緒だったという友人は別れの言葉の中で、仲間3人の絵画展の出来ないことを悔やんでいた。自分たちを絵画好きにしたのは5年生のY先生だったと言っていた。亡くなったKさんは中学・高校の美術教師でありつづけ、退職後も絵筆を身から離さなかった。
本当に優しい教師だったのだ。最後の高校の教え子代表は、何度も絶句しながら別れの言葉を捧げていた。
一昨日、全国一斉学力テストだった。ちょうど出張から帰ったというTさんが次のようなことを話していた。私は話を聞きながらあまりの事実に言葉が出なかった。
① その県の友人は理科専科教師にされたのだが、理科のテストの結果がよくないということで、今年から専科をはずされたと言っていた。
② その県では単元が終わるごとに「単元テスト」なるものをやっているという。
③ 6年生は、新学年になっても学力テストの前日まで、過去の学力テストの問題と毎日取り組み、やっと新学期になるみたいだ。
聞かされたのはこの3点だったが、もっともっと学力テストにまつわる話はあるのだと思う。あえて県名をあげることは控えるが、これが全国学力テストによってつくられた姿と言える。
「一斉に単元テスト」などということを聞くのは私には初めて。これでは教師は教科書べったりから抜け出せない。それが本当に子どものためになると言えるか。この方式がどこでもとられるようになれば、使用教科書はたとえ違っても「国定教科書」と変わりはないだろう。「教育の創造」などという言葉は現場では既に無になっているのだろうか。わが宮城はどうなのだろうと心配になる。恐ろしいことだ。
これでは「絵の好きな担任だったので絵が好きになった」というKさんのお別れの式での話のごときものはほとんどあり得なくなるどころか、このような教師は学校にとってたいへん迷惑だということになるのだろう。そんな学校でいいのか、ぜひ考え合いたい。
2012年04月14日
今日はサークルの月例会だった。今年で何年になるだろうと古い記録を引っ張り出してみたら、私の在職中の1993年9月にスタートしていた。きっかけは、生活科の教科書「どうして そうなの」「ほんとうは どうなの」の編集にTさんと私が参加し、仲間の多くに協力をもらったその教科書の願いを考えつづけようということだった。この教科書の合言葉は「もともとのことを考える」だから、話し合いは生活科に限らず多岐にわたる。
93年スタートいうことは20年近く続くということで、今や現役よりも卒業生が多い。それでも、若い講師も参加している。一度、会の解散が話されたことがあったが、卒業生からまでも「つづけたい」という声が出て集まりはそのままつづく。私にとっても、ここでの話はセンターの仕事を考えるに大いに役立っているので参加しつづけている。
今日は、センター通信別冊「こども 教育 文化」第1号の「しゅんすけ君のことば」も取り上げられた。編集した者としてはサークルで使われるなんてことさらうれしい。
しゅんすけ君のことばを全部読んだ後に話し合ったのだが、今教育はさまざまな問題をかかえているが、(子どもはこのような心・目をもっているのだ)と教師が自覚して子どもに向き合うかどうかは大きな違いになるのではないかなど種々の話が出された。
今年の1年生にとっても1週間は過ぎた。子どもたちに 幸あれ! と祈る。
4月10日のしゅんすけ君のことば。
おかあさん
がっこうってすごいんだよ
ぼくだけのつくえとね
ぼくだけのいすがあるんだ
おおきなこくばんがあってね
せんせいがいろんなことを
おしえてくれるんだ
おかあさん
じをかくのはね 「こくご」っていうんだ
それからね 「さんすう」は すうじをかくんだ
そとであそぶのはね 「たいいく」っていうんだよ
2012年04月09日
先日、Tさんに会ったとき、「通信66号の高校生の話、たいへんおもしろかった。ずいぶん省略したというが、省略する前の元のものを読みたい」と言われた。このように言ってもらうことは私もうれしいが、あの場の高校生に話せば彼らも喜んでくれるだろう。何にしろ、このように関心をもってもらうことは、枯渇しつつある自分にとっては大きな励ましになる。
なおTさんは「鈴木道太さんは文章がうまいねー」とも言ってくれた。これもうれしかった。別冊をつくろうとした時、道太さんの、この「北方教師の記録」の一部をぜひ紹介しようと思ったのだから。本当はあってはならないはずなのに、なぜこんなにも教師の受難がつづくのか。戦前の教師の場合、道太さんたちはどうしてきたのか。戦前はなにゆえに、そして、戦後の今はどうして・・・。
「北方教師の記録」について少し付け加えておく。「あとがき」によれば、この本の初版は1951年に東洋書館から出版され、1957年に、「鉄窓の回想」を加えて、麥書房から「生きている教育シリーズ2」として1957年に再刊したのである。
道太さんは、「あとがき」の後半部で「わき見もせずに、いのちの燃焼を根かぎりつづけた時代をもつことができたということは、たとえそれが牢獄につきるものであったとしても、いまにしておもえばなんというしあわせなことであったろう。わたくしたちは、人生を二度生きることはできない。」と書いている。
ちなみに、「生きている教育シリーズ1」は宮崎典男さんの「人間づくりの学級記録」である。そして、「人間づくりの学級記録」は今企画中の「戦後教育実践書を読む会」シリーズ第2回の1冊として考えている。
2012年04月03日
朝の連ドラ「カーネーション」が終わった。
途中から見始め、その後は休みなく見つづけた。周りとの会話の中にも「カーネーション」は時々入り込んだ。見ていた人は結構いたのだ。
余計な説明を徹底的に省き視聴者の想像に任せるから冗長にならずテンポがよかった。15分の放映時間とは思えぬほど内容が充実し、脚本家の力に驚くことが非常に多かった。
小原糸子の一代記ゆえに、最後はヒロインの交替があった。晩年を担当した夏木マリの演技を見ながら、若い女優尾野真千子の成長のためにこのチェンジはよかったと思った。一人でやりきったとすると、尾野は自分を振り返ることなく、その評判をストレートに受けとめて終わったかもしれない。しかし、夏木が最後を受け持つことによって役者としての自分のこれからを種々考えさせられたことはまちがいない。
夏木は、別番組で、「尾野の演ずるヒロインの特徴を観察して細部までも違わないように気を配り岸和田弁の独特の発声をも練習した」と言っていたが、話し言葉の間の取り方など私は演技に向う姿勢に感心することが多かった。それらに尾野自身も感じないはずはなかろうと思った。
話はそれるが、元教師の自分のことにもどして振り返ると、自分があの先輩・同僚に出会うことがなかったら・・・と思う人をたくさん上げることができ、それら多くの人との出会いを幸せに思う。
私は人との出会いに本当に恵まれていた。
朝会で折れたドラムのバチをもって、1500人の子どもたちの目をそこに釘付けにして話したHさんの“魔法”を知りたいと思って翌年同学年を希望して1年間Hさんの子どもへの接し方を探ったことなど、何人もの私を育ててくれた人をあげることができる。自分のこんなことを思い出すたびに並の人間は一人では何ほどのこともできないことを強く思う。
夏木は尾野のために演技をしたのではない。しかし、尾野から見れば自分のために晩年を演じてもらったと思うことによって、自分の演技で得たもののうえにさらに大きな収穫を得た「カーネーション」だったと言えるように思う。