2011年9月

2011年09月28日

原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色

25日の朝日歌壇、高野公彦選第1首、ドイツ在住・西田リーバウ望東子さんの作。

選者の高野さんは「ドイツの選んだ道を祝う心、日本も同じ道を選んでほしいとの気持ちをこめた歌だろう」と評している。

作者の西田さんは、連日、日本の動きを気にし、福島原発のその後を心配してくださっているのだろう。住みなれた土地を強制的に追われるように離れ、いつ帰れるかわからない不安をかかえた毎日を過ごしている人々、とくに子育て中で、いちいちの食物を心配しながらの生活を強いられている人々、そして、その食物をどんなに心を込めて作っても育てても喜んで食べてもらえない生産者、日ごとに増えるばかりで捨て場がどこにもない放射能廃棄物、いったん破損すると通常の生活常識ではどうにも手のつけようのない原発事故。終わりのない事実を見せつけ、センモンカが入れ替わり立ち替わり登場しても明日が少しも見えない福島原発事故。

それ見ているのか見ていないのか、人々の安心・安全を担うことを仕事とすることにイノチをかける?と言ったセンセイ方は平気で他の原発の稼働を口にする。こんなことって、とてをも考えられない。セイジカって私たちにとってどんな人なのかわからなくなる。

ドイツの西田さんは、そんな日本の今を見ながら、「原発にさよなら」をするとどうなのか、私たちに知らせなくちゃと思ったに違いない。「空の風みどり色」、私もうらやましい!

今度の脱原発集会には私も参加しなくちゃ、と強く思う。私たちの渦を広げるより他に今の日本には道がないのかもしれないから。

2011年09月23日

7月実施の仙台市学力検査の結果が今日の河北新報に載り、「市教委は、年度末に東日本大震災が起き、学力低下が心配されたが目立ったマイナス影響はないと分析している」と書いていた。まずは、メデタシメデタシということか。

へそ曲がり故かもしれないが、この記事がなんとなく季節外れのお便りに見え、そのうえ「だからなんなのよー」とつい口走りたくなるものに思えたのはなぜだろう。

でも、私はこんな無責任なことを言っておられるが、この結果が下りていく学校・親・子どもにとっては、これからがたいへんなのだろう。どんなに正答率が上がっても、平均値が基準として居座る限り、どこまでいってもその値を下回る学校・子どもは永久にフメツ。そう考えていくと、検査結果がどのような流れで子どもまでの指導資料になるのかが気になってくる。

新聞は、市教委の説明と思うが「期待正答率は、学習指導要領に基づき、標準的な時間をかけて学んだ段階で到達してほしいラインとして、問題作成業者が設定する」とも書く。この説明に少しも間違いはないだろうが私には理解困難。「標準的な時間をかけて学ぶ」とは? 「到達してほしいライン」は誰が? などと考えていくと迷路に入り込むようで、(そうか、そういう検査なのか)とストンといかないのだ。

かつて中学に勤めていたとき、数年がかりで通信表の5段階評価をやめて、すべて記述にしたことがあった。その通信表を渡したとき、中学1年までの7年間、評価「1」のすべてを一人で背負ってきたS君が、しばらく読んでいた後、私のところに走ってきて、「何回も読めば国語がよくなるということか」と叫んだ。私は記述式にしてよかったと内心喜んだ。しかし、しばらく経ってから、毎日一緒に暮らしていながら、なぜ通信表を通して伝えなければならないのかという疑問がわいた。

子どもの学力検査や評価はたいへん難しい。むしろ、ほとんどのものは日々の暮らしのなかでこそ知ることに努めるべきでないかと思った、今でもわからないことだが。

少なくとも教育に関することは、ほとんどはAかBかではいかないことゆえに、じっくりと考えてすすめたいものだ。

2011年09月17日

いつも間が開きすぎて、日記とはとても言えない欄の担当をしていることが恥ずかしい。

この週は自分の力では負えきれないほどたくさんのことがあった。もちろん、その一つ一つはすべて自分にとってプラスになるものだけだったのだが。

センターの2人だけではとても負えないので応援をたくさんの方に頼んだ。いつも多くの方の応援で切り抜けているが、今回もそうだった。ありがたいことに、みんな快く受けてくれた。Uさん、Mさん、Kさん、Yさん、Nさんの力添えがなければこの週はどうなったか・・・。Uさんには子どもさんをも入れて一家で石巻からここセンターまで足を運んでもらった。

その間に、通信64号の原稿が次々と届き、ほぼ今月末発送の可能性も見えてきた。原稿をお願いしたほとんどの方は現役で多忙な毎日を送っている方たちなのだ。

また、私が外に出かけた日には、運営委員のSさんとDさんにで運営に関する急ぎの仕事についての話し合いをしていただいた。そのおかげで次の仕事が見えてきた。

本の販売担当を引き受けてくれ、しばらく面倒をかけるだろうAさんにとっても、特にこの週は忙しかったようだ。

 

研究センターは「多くの人に支えられている」といつも思っているし、いつもその支えによって存続し続けている。金がないと存在できないが、多くの人の支えがないと存在価値を示せないことも確かだ。

かもがわ版「3・11 あの日のこと、あの日からのこと」刊行については、読んだ人から「センターはたいへん良い本をつくってくれた」とおほめのことばをいただいている。じつにうれしい。しかし、あの本も、多くの仲間の証言集ゆえに価値があるので、私たちがセンターの机上でどんなに頭をひねっても成るものではなかった。

付け加えになるが、あの本は、発行後1ヶ月もしないで版元で品切れとなった。2刷りの間、少し待たなければならなくなった。

2011年09月09日

今日は定例の事務局会議だった。

報告の2つめにおいていた「3・11 あの日のこと、あの日からのこと」刊行のところでYさんから、「本の中の、みやぎ教育文化研究センターの説明について、『宮城県教育会館の公益事業部門の1つとして設置され』とあるのは、研究センターがそのためにつくられたかのようにとられるのではないかと気になった」という発言があった。つまり、これまで会員みんなでつくりつづけてきた研究センターの歴史がその表現ではすっぽり抜け落ちているということなのだ。

まったく言われる通りである。今年からこの研究センターは教育会館との事業統合により正式名称は「(財)宮城県教育会館みやぎ教育文化研究センター」となったのだが、本の表紙ではその頭の部分を入れなかったので、ここでその正式名称と関係を明確にすべきと考えてセンターの説明を書いた。しかし、指摘されるとおり「~として設置され」となれば、間違いなくこれまで会員みんなで歩んだ17年の歴史を切り捨てた表現になる。

私自身を振り返ると、編集作業が終わった後での補足的な仕事という気持ちの緩みがその表現にさせてしまったという悔いをあらためてもつが、「何々の見える益がある」などとまったく言うことのできないみやぎ教育文化研究センターの会員となって一口3,000円の会費を納めつづけてくださった人が400人以上もいるのだ。Yさんで言えば、そのうえ月2回の事務局会議で毎回半日をそのために無償の奉仕をつづけてきている。それは、この研究センターへもつ期待のほかに理由があるはずはない。それなのに、これまでの歩みの労苦は無視して突然「~として設置され」と言われては気持ちが収まらなかったに違いない。

一口3,000円の会費を納めてセンターを支えつづけてきている400人を超える会員の思いがYさんの言葉なのだと思いいたったとき、表紙裏に書く言葉だからと軽率な表現をした自分の気持ちのあり方に己の身の置き場がまったくなかった。これまでは、1年間をどう切り抜けるか、しかも、マンネリズムに陥らない内容の活動をどうつくっていくか、緊張の連続だった。自分では変わらないつもりでも緩みが出ているのかもしれない。短い表現の問題であろうとも見逃さず指摘してくれる人に一緒に仕事をしてもらえる自分を幸せ者とつくづく思った。

2011年09月03日

戦後教育実践書を読む会、第2回(10月8日)「新しい綴方教室(国分一太郎)を読む」のために、国分さんの本をまた読み始めた。

国分さんの書いたものは、何を読んでも明快で私は仕事で大きく支えてもらった。その論を裏付けたのは、教室の、子どもたちの、多くの具体的な事実だ。ところが国分さんは、師範卒業後、教師としてあったのは長瀞小1校だけなのだから驚く。「新しい綴方教室」が世に出たのは40歳の時。その元になる原稿は2年前の38歳から連載を始めている。

どうしてこのような人がいたのかたいへん不思議なことであり、そこをつまびらかにしないで「新しい綴方教室」を読めないと思っている。

その元になったのは、まとめて言えば、教育・綴方に関する本を驚くほど読んでいることと、地元山形に限らず東北の教師との交流が深かったこと、いや全国の実践家に広がっていたことにありそうだ。短期間に国分さんほど多くの教師との交流を持った人はいないのではないか。

国分さんのことは後日のことなのでこれで止める。

ところで、今の教師はどうだろう。勤務校以外の教師の仕事に関心を持ち学ぼうとする人はどれだけいるだろうか(ガンジガラメの中で無理との声はよく耳にするが)。用意された初任者研修等での人との出会いはあるだろう。でも、これは私の言いたいことでは論外。もし、そこだけで終わるならば、定年まで、たとえ管理職となっても、自分の仕事の大きさ、教育の深さを知らずに過ごす人になるのではあるまいか。考えようによっては、知ってしまったがゆえに苦労しつづけなければならないことを考えると、知らずに終わることは幸せな一生になるのかもしれないが・・。

国分さんが、山形東根から自転車を踏んで関山峠を越え仙台・広瀬小の研究会に参加したと鈴木道太さんから聞いたことがある。これは、前述と結んで言えば「知ってしまった」がゆえと言えるのだろう。