2011年8月

2011年08月29日

かもがわ出版からの「3・11 あの日のこと、あの日からのこと ― 震災体験から宮城の子ども・学校を語る」が動き始めると読者の反応が気になる。Sさんから感想のメールをいただいた。たくさんの語り手の話でまとめあげられたもの。感想を私だけのものにできない。Sさんには無断りだが次に紹介したいと思う。

『3・11 あの日のこと、あの日からのこと』昨晩読みました。

11時過ぎに読み始めたのですが、眠気も飛んで最後のページまで一気に読みました。

この読後感の良さはどこから来るのでしょう。すさまじい中を生きのびた子ども・人々の事実・記録ということ、それぞれの方の確かな表現力、そういうことはもちろんあるのでしょうけれど、私はやはり教育という営みの深さ・大きさに改めて感じ入った気がします。

「私たちは普段から子どもの命を預かっていたんだ」とどなたかが書かれていましたが、それは多分震災のような事でなくてもそうだし、そこで守られるべきその命とは、たんに呼吸をしているという意味の命というだけではなく、あらゆる意味での「いのち」なのだという意味で、やはり教師は ”聖職”なのだと改めて思ったのです。(組合の先生たちはあまりお好きな言葉ではないようですが。)

田中先生のはもちろんですが、ご一緒の臨床教育学会準備チームのお二人の方の文にも深く共感しました。

本の全体構成もいいですね。

ひとつだけ言うとすれば、表紙と帯に「教師」と言う言葉はありません。でも、読むとやはり「教師」は欲しい気もしました。

それと、「震災体験から宮城の子ども・学校を考える」とサブタイトルにあって、帯に「被災地から踏み出す教育再生への一歩」とあるので連続して読むとやや「濃い」感じもしました。教育に関心のある方が手に取るのでしょうから、それでも良いのでしょうけれど。

この本を読んでいただくことでお互いのこれからを考える素材になることができればという願いと同時に、私たち研究センターがこれから何を考えていくべきかの示唆を得たいというねらいもある。率直なご感想をお寄せいただくとうれしい。

2011年08月23日

7月2日の語り合う会終了後、かもがわ出版の編集者Mさんから本にまとめたいという話が出てアッという間にまとまった。しかも8月中に仕上げるというもの。

それからがたいへん。Mさんたちと毎日のように連絡を取り合う。そのたびに、仕事の手順の良さに驚く。電話・メールのたびに日ごと仕事がすすんでいることがわかる。すすみながら細部が修正されていくのもよく見える。

Mさんから送られてきたメールの主なものを拾ってみる。(この間に編集実務担当のWさんからのメール・電話、Mさんからの電話もしょっちゅう。)

24日  校正刷りを作成し送り、28日までにもどしてもらうよう頼んだと連絡。
順調にすすめば8月17日に見本納品予定で刊行可能とのこと。
25日  カバーラフについての意見を・・。
25日  カバー修正案届く。
26日  チラシリード届く。
27日  読者用チラシ修正版、確認を。
27日  ページ数定まり、本体価格決まるとの連絡。
29日  カバーと帯の確認を。
29日  執筆者リストと奥付についての確認を。
1日  本の成り立ちの断り書きの確認を。
2日  カバーに入る説明文の確認を。
2日  オビの確認を。
2日  本文写真撮影者の名前の確認を。
18日  本を送ったとの連絡。

こうして「3・11 あの日のこと、あの日からのこと ― 震災体験から宮城の子ども・学校を語る」ができあがった。

最後にTさんの感想の一部を紹介する。

帰りの新幹線で全部を読み通してみました。デザインもそうでしたが、内容(人々の文章、子どもの文章、そして写真)も、悲しさと美しさと、それでも生きていこうとする静かな意志が同居しているように、あらためて感じました。「3・11」の「記録」としての価値ももっているように思えました。

おかげで、仕事をしたという充足感をもつ。関わらせてもらい、Mさんたちに深く感謝。

2011年08月16日

終戦66年を迎えた昨日について、K新聞の見出しのひとつに「首相と全閣僚靖国参拝せず」とあった。この「せず」がなんとなく気になったのはどうしてか。

45年8月15日については、山の分校の小学4年生だった私にも、何年経っても薄くなることのない記憶がいくつかある。

今年と同じように焼けるような陽ざしで体を動かすたびに汗がしたたりおちてきたたこと、母は唐鍬をかついで松の根掘りに朝から山に出かけ汗まみれになって昼近くに戻ってきたこと、昼にラジオのある隣家に子どもも一緒に集まり“玉音放送”を聴きその内容はほとんど理解できなかったがなんとなく戦争に負けたらしいということを感じたこと(それを知った時の大人の様子はまったく記憶にない)、母たちは午後山には行かなかったこと、道路向かいの豆腐屋の生け垣のムクゲの花の色がすごく目立っていたこと、などである。

トラック島にいると言われていた父は何日待っても音沙汰なく、突然翌年、霞ヶ浦の病院にいるとの連絡があり、母が迎えに行き、仙台の大学病院で手術、病名はアメーバー赤痢。これは母から聞いたもので、父は病気のことも含めて戦地のことは何一つ言わなかった。しばらく仕事に就けない間、休職教師の父と2人で紙巻きタバコつくりをして闇で売り生活の足しにした。これが唯一の父との思い出と言っていいかもしれない。

7・8年前になるが、友人の紹介で、「トラック島日誌」(窪田精)を読んで、父のトラックでの暮らし、病気の原因、帰国は奇跡に近かったことなどが想像できた。

窪田はあとがきの1部で、「トラック島では、約8千名の陸海兵士が死んでいる。そのほとんどが餓死だった。私はトラック島で、生きながら人間の地獄を見た。戦争というものの実態を、まざまざと見た。私はもしも生きて日本に帰ることができたならば、この島でみたものを、なんとかして書き残したい。それが死んでいったものたちにたいしての、生き残った自分の義務である」と書いている。

この本を読むことで私は、何も言わなかった父を少し理解できたように思った。

父の病気は再発。死後どういういきさつか、戦病死ということで靖国に祀られたと連絡があった。母は遺族会の清掃にいそいそと参加したことがあった、1度だけだったが。

誰もが口では否定しながら同じ悲劇を繰り返している「『戦争って』何なんだろう・・」は、私の中に変わりなく居座りつづける最大の問題である。