2011年4月

2011年04月30日

世界文学全集(池澤夏樹個人編集)を出す「河出書房新社」は創業120年記念事業となっている。学生時代、ドストエーフスキイ全集全16巻(米川正夫訳)が「河出書房」から出されることを知り、大いに悩んだ末に買いつづける決意をし、全集は今も書棚の中央に陣取っている。

「創業120年記念」が特に目についたのは、このドストエ―フスキイ全集の発行が6巻までは河出書房、第7巻からは河出書房新社になっていることからである。

今日は久しぶりに家でぼんやりと過ごせたので、書棚から引っ張り出して奥付などを眺めてみた。第1巻は昭和31年10月30日発行。貧しき人々・分身など3篇所収。定価630円。私は当時大学3年。ちなみに授業料は500円で奨学金2000円を借りていた。

第7巻は昭和32年7月15日発行で、この号から「河出書房新社」になった。この号の月報に編集部の「ごあいさつ」が載っているので1部を抜いてみる。

「~去る3月末、小社は経営上の不始末から業務停止のやむなきに立ちいたりまして、決定版ドストエーフスキイ全集の刊行も中絶いたし、長い間、御愛読いただいておりました皆さま方に、非常な御迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。さてこのたび債権者各位並びに諸先生方の御好意によりまして、新たに河出書房新社として再出発いたすことになり、本全集も継続刊行できることになりました。本日はいよいよ第7回配本「白痴」上巻をお手元にお届けいたす運びとなりました。~」

ところで、よく調べると、私のもつ全集は第14巻「作家の日記(上)」で終わっていて、15(中)・16(下)が抜けている。今回初めて、そのわけがわかった。第14巻は昭和33年3月25日発行。大学卒業の月で、15巻が刊行されたはずの翌月の4月私は教員になっている。4月からの給料の手取りが七千円ちょっと。ドストエーフスキイ1冊は給料の1割近くにあたり、ついにその後の全集は買えなかったのだ。

学生時代なんとか買いつづけることができたのだが、給料を手にする身になって、息切れしてしまったということになる。なんとも情けない教師生活の第1歩でもあった。全集発行が中断しなければそろっていたということになり少々残念だが、社員の熱意で「新社」をつくり発行がつづき、出版社が創業120年になるということになることは大いに喜ばしいことである。

2011年04月24日

いま、「光の指で触れよ」(池澤夏樹著)を読んでいる。

あることを契機に家族がバラバラに暮らし、それぞれがその暮らしの中で、これまでにない体験をする。

新潟で暮らす森介が父・林太郎たちに大雪の日にあった文治先生の言葉を聞かせる。

「暖房も食べる物もいつでもあると思うな。自然というのは恐ろしいものだ。あの雪を見ろ! こっちがうんざりするほど降って、いつになってもやまない。こっちの声は自然には届かないんだ。もういいです、止めてくださいと叫んだって、雪は止まらない。自然が意地悪なのではない。それならまだいい。自然はまったく無関心なんだ。人間がどうなろうと、そんなことはどうだっていいんだ。だから恐ろしい。たぶんこの雪ではおまえたちは死なない。だが暖房も食べる物もなくて自分が死ぬという事態を想像してみろ! 人間のいない世界を想像しろ! それだけ言うと文治は教室を出ていった」

この森介の話を読みながら、今回の震災についてのもろもろのことが私の頭の中を猛烈な勢いで巡り始めて止まらない。森介は、いや文治先生は、私にも話しかけてきたんだ。

文治先生は、次のようなことも言ったと森介は言う。

「だいたい、未来はわからないんだ。わからないから未来なんだ。物理は哲学だ、とも言う。だからいつも話がどんどん広がる。答えを疑えというし、物理なのに正解はないと言う。計算の結果はいつだって仮の答えだ」と。

震災についての巡りは私の中で止まらない。そこに、「答えを疑え」をぶつけられたとき、とつぜん頭をかすめたのは、震災の復興の中に、画一的な学習指導要領を根本から考え直すことを必ず組み込まなければならないということだ。私たち一人ひとりのものの考え方が柔軟で想像力あふれるものにならなければ未来につながる本当の復興にはならない。それには少なくとも、文治的、柔軟な教育だけが道を拓くのではないか・・・。

2011年04月17日

Aさんの車で、仙台市岡田に住むSさんの震災見舞いに行った。Sさんは長年お世話になっている大工さん。1階の屋根下まで水が来たという。ひさしのそちこちがつぶれ、庭の真ん前にどこからか流れてきた鉄骨むき出しの倉庫が居座っていた。Sさんは「この倉庫があるうちは片づけがうまく運べない」「2階は使うことができるのだが、1階がすべて使えないので、結局は解体ですね」と言っていた。

この場所に津波が来ることをこれまで考えたことはまったくなかったという。「津波が来るという知らせで私たちは逃げたが、『ここまで来るはずはない』と茶の間にいた人は水に飲まれたようだ」と言っていた。

Sさん宅から海岸沿いを走ってみることにした。七北川沿いにすすみ、そこから仙台港・多賀城・七ヶ浜・塩釜・松島・野蒜の浜から東松島、最後は石巻港付近から駅前通りを走った。どこを通っても津波の跡のないところはない。塩釜・松島はなぜか他とは違って大きな痛みは目に入らない。それ以外の地はどこを通っても瓦礫瓦礫、建っている家も中はがらんどう。東松島では瓦礫の山に2人の女の人が立ち、棒を手に何かを探しつづけていた。

菖蒲田海岸につづく御殿山の陰になる入江の波打ち際にコンテナが4本打ち上げられていた。その1本のそばに、しゃがみこんでいる喪服の女の人と海に向かって立つ法衣の人がいた。僧侶は読経をあげているのだろうか、時々、女性は何かを手渡し、僧の手によって海に向かって繰り返し投げられた。2人の周りを小犬が行ったり来たりしている。その後僧の両手に奉書が長く広げられ、しばらく風に舞う。僧侶の声は離れている道までは聞こえない。

女の方の連れ合いがこの海で亡くなったのか、親族はいないのか・・、もしかすると、あの女の方ひとりと小犬だけを津波は残したのだろうか・・・。

砂浜の光景を背負って後の場所を歩きつづけ、家にもどったときは、陽はとうに落ちていた。

2011年04月12日

昨日、通信62号をやっと発送することができた。3・11が予定を大きく狂わせたのだ。

発送が大きく遅れたのに、今回は、今までになかった悩ましいことがいくつかあった。

一つは、震災1カ月後も経って届けるのに、「みやぎ」と名のつく研究センターの通信の内容が、震災にほとんど触れていないことである。すべて依頼原稿ですでに組んであり、震災後すべてが止まったのでどうしようもなかったのだが。

二つ目は、通信の送付状を容易に書けなかったことである。これまでは、「会員様」宛てに気楽に書いていたが、今回はそうはいかなかったことだ。とくに被災地のことを知れば知るほど、会員の一人ひとりの姿が浮かんできて、このことばはあの方には不適だとか、この文はこの状況のなかではまずいのではないか、とかさんざん悩んだ。そのあげく、恥ずかしくなる送り状しか書くことができなかったのであった。

三つ目は、通信と一緒に、次号を「震災特集」にする目的で、それへの寄稿を会員のみなさんにお願いしたことである。このことを事務局会に提案するまでずいぶん悩んだ。「復旧の仕事に全精力をかけている時、しかも、あの事を今すぐ書けなんて、あまりにノーテンキなことを。なんて鈍感な!」と思われるだろうということが頭を離れなかった。でも・・。センターができること、センターだからやらなければならないことは何か。まさかテレビのコマーシャルのような「がんばろう!」などとかけ声をかけることではないだろう。被災地の会員もそうでない会員も、思いをストレートに出し合い、それを交換できる場をまずつくることは通信ではできるのではないか、それを次号でやってみよう、と決めた。事務局会でも私の心配することも出された。それを押してお願いすることにし、お願い状を同封した。お願い状を送った後の今もよかったかどうかはわからないでいるが願いがかなえられて特集がつくりたい思いは変わらない。

2011年04月07日

Tさんに案内をしてもらい、仙台の被災地の海沿いを歩いた。荒浜の防潮堤に立って海を眺めていると、そばにひとり立っていた方が「こんなに静かな海なのに・・。津波が襲ってくる前には何百メートルも沖に潮が引いたんでしょうねー」と話しかけてきた。堤防に沿っていた防砂林の松は樹齢数十年と思われる木が私の背丈ほどのところで真っ二つに折れて所々に立っているほかは、根こそぎ引きぬかれ、海岸をどこまで離れても根をつけたままそこかしこに横たわっていた。体育館の屋根のすぐ下に突き刺さったまま宙に浮いている感じの大木まであった。

被害は東部道路を境にして海側にあった家屋はほとんど姿を消し、わずかに家の形を残して立つ家も近寄ると内部はすべてガランドウだった。荒浜小学校も東六郷小学校の中も同様だった。建物の中に車が押しつぶされ、流れてきた家屋の木材と一緒に閉じ込められていた。先生たちの通勤車であろう。

荒浜小の3階4階には、その日避難した人たちが夜を過ごした時使ったのだろう段ボールと毛布がそのままになっていて、恐怖で眠ることもできなかっただろうたくさんの避難者の様子が想像された。

両校とも、他校に移るとのことで、先生たちが残ったもので使用できるものの運び出しをしていた。このような仕事を毎日つづけているだろう先生たちの体は大丈夫なのだろうかとたいへん心配になった。東六郷小には自衛隊の車両が運搬の手伝いに来ていたが。

数年前、センター通信の取材で訪れた東六郷の地域は一軒の家も残っていなかった。東六郷の良さをいろいろとあげ、地域と学校に誇りをもち、「統廃合には絶対反対です。小さくとも学校をここからなくしたくない」と話していたのだったのに・・・。

新聞やテレビの報道でも大きな衝撃を受けていたのだが、現地を歩いた今日受けた衝撃はこれまでと比べものにならなかった。頭の中が混乱し、Tさんに対してもうまく言葉も出ない。

仙台の穀倉地帯になるこの地の田にはまだ海水が残り、ガレキも散乱している。そのなかでひとり水路をつくるために重機を動かしている人がいた。できるだけ早く海水を流そうとしているのだろう。機械を動かしている人の姿から沈みっぱなしの気持ちに明かりをもらった感じで帰路についた。