2012年1月

2012年01月26日

数日前のテレビで、被災地の小さい女の子が「早く海のガレキがなくなって、海で遊びたい」と言っているのを見た。聞いて、内心ドキッとした。年端もいかないのに「ガレキ」という言葉をふつうに使うのだ。自分の場合を振り返ってみる。「瓦礫」はいつ獲得した単語か思い出せない。以前にもった単語の一つであることはまちがいなくても、日常的に使った記憶はない。とすると、「ガレキ」について70年以上を生きた私の使用とあの子の使用とは同じ3・11後ということになる。

あの子の場合、ガレキの中で暮らしながら周りで使用する言葉をしぜんに口にするようになったにちがいない。教科書4年生に入っている物語「一つの花」(今西祐行)を思いだした。「一つだけちょうだい」と言えば食べさせてもらえると思い、おなかがすくと「一つだけちょうだい」を繰り返すユミコ。あの小さい女の子の言葉にユミコと同じような痛々しさを覚えた。そして、「ガレキ」なんてことは、あんな小さいときから所有する単語でなくていいのではないか・・と。

広辞苑の「瓦礫」をみた。「①瓦と小石。②価値のないもののたとえ。」とあった。Rさんの授業を見に行った折、机上の小学生用辞典を開いてみた。国語辞典には載っていなかった。当然と思った。もう一種、漢字辞典には広辞苑と同じ「かわらと石」、それに「何の役にもたたないもの」とあった。

私の中で3・11前までもっていた「ガレキ」の意味は、広辞苑のままだった。しかし、今は広辞苑の意味では3・11以後の「ガレキ」の説明にはならない。あの子の言う「ガレキ」はもともと人間が普通もっていただろう広辞苑の意味を超えて、破壊された家や大小の船・流された車・折れ砕かれた立木、それらとともに生活必需品までを含めたありとあらゆるものが入っているだろう。とすれば、「ガレキ」のなかには「価値のないもののたとえ」とか「何の役にもたたないもの」などという派生する意味はまったくないはずだ。

あの子の何気ない話から、3・11が私たちからはぎとり、変えたものは、決して日常の生活だけではないということになることを強く思わされた。

2012年01月23日

21日、「ホームページを見ていたら、運営委員の一覧中、所属欄の『宮城~』が『営城』になっていました」という電話をいただいた。開いて見るとそのとおりだったので、すぐ訂正をした。つい片手間な仕事になってしまっているホームページの扱いを恥じるとともに、お名前を伺わなかったが、お気づきのことを面倒がらずお知らせいただくというセンターへのお心遣いに感謝し、たいへんうれしい気持ちになった。

来年度からは変わるが、研究センターは決して安いとは言えない会費で400人を超す方々に支えていただいている。そのうえ、会費をいただくだけでない、有形無形の応援をもらいながら存在できているということをいろんな場で感じさせられている。

私の教員生活は、どうしても子どもと同じ目線に立つことができず、とうとう「教え屋」を少しも身から剥がすことができずに終わってしまったことを未だ慚愧に思っている。しかし、研究センターの仕事をやらせてもらうことで、たくさんの方々に支えられずには何事もできないことを実感する日々を送ることで、己の身が少しずつ洗われ救われているように感じている。

今通信66号の仕事に入っているが、この号では被災地高校生の声を載せたいと考えた。考えてはみたものの自分の力では高校生を集めることはまったくできっこない。いつものことだが、高校のHさんに助けを求めた。Nさんにも頼んだ。なんと、みんな二つ返事で協力してもらえることになった。会場探しはKさんにお願いした。Hさんには、「見つからなければ我が家を使ってもいいよ」とまで言っていただいた。うれしいかぎりだ。こんなに応援をしていただいて、この企画の失敗はできないとプレッシャーは強くなっているが。

2012年01月17日

「かすかな光へ」上映実行委員会の閉めの会を16日もった。

実行委員のひとり東北大生3年のS君は、「ぼくは就活のため映画を観ることも大田先生のお話をきくこともできませんでした。この当日の感想を読むと、就活のために東京に行くことを止めればよかったと思いました」と言った。

実行委員会は解散になるが、S君の言葉を受けて、今後東北大での上映会をつくることを勧め、協力することにした。S君は喜び、学内に実行委員会をつくり取り組むことの抱負を述べた。同席していた若い保育士のHさんも、「あの日、観たいと思いながらも仕事で来れなかった同僚もいたので・・・」と再上映を歓迎した。2人の願いはまちがいなく実現するだろう。ひとつの会の終わりが次を生んだことになる。なんと気持ちのいい閉めの会か。

話は飛躍するが、私は、小学校(正しくは国民学校)の2・3年の頃、家の書棚にあった国語読本の中の「松坂の一夜」を読んで、賀茂眞淵と本居宣長の対面している挿絵まで今でも覚えているが、この意味はほとんどわからなかった。

大学の入学式のとき、哲学者・高橋里美学長の話を聞きながら、しだいに体が締まってくるように感じ、大学という特別の学びの場に身をおくことになった自分を強く意識させられたことを思いだした。話の内容は今まったく記憶にないのだが。

おおげさな言い方をすれば、この入学式が私にとっての「松坂の一夜」だったかもしれない。本居宣長にとってはこの夜だけだったのかどうかわからないが、私にとっての「松坂の一夜」は高橋里美学長以後も数え切れないほどあり、そのたくさんの出会いに支えられて今の自分がある。

こんなことから推しても、就活を止めても映画を観たかったと後で思ったS君が、「かすかな光へ」を鑑賞する場を自分でつくり、多くの仲間や1・2年生にもぜひ働きかけると言ったことを私はうれしく思う。そして、84分の映画だが、S君にとっての「松坂の一夜」になるにちがいない。もちろん、そこに足を運んだその他の人たちにも。

2012年01月12日

昨夜のNHK・クローズアップ現代のテーマは「テレビ時代劇の激減」だった。そこで初めて知ったのだが、理由のひとつとして「時代劇視聴者は高齢者が多く、購買力が弱いので時代劇にスポンサーがつかない」ことと言っていた。確かに民放はスポンサーがつくことで放映できることを考えれば当然のことであり驚くに値しないことかもしれないが、私は複雑な気持ちになると同時に、どんな番組にもお笑いコンビが登場している理由と同根であるなとも思った。聴視料で放映しているNHKまで似通ってきている理由についてはわかりかねるが・・・。

番組を見ながら、(そうか、すべては視聴率で番組が編成されているのだとすれば、視聴者としての自分はテレビを見るときも試されていることになるから、よほどしっかりしないと、文化の衰退に加担していることになるのだ)と思ったりした。

私はあまりテレビに近い生活でない方になろうが、関連して2つの番組を思い出した。一つは、TBS土曜夕方の番組「報道特集」。これは何十年と続き、キャスターは代わってもほぼ同じスタイルを頑固に守っているように見える。奇跡にも近い番組に拍手を送りながら今も見続けている。

もう一つは、数日前のNHK放映の池袋と被災地を結ぶ高速バスにまつわる番組。長い時間をかけて人を追い続けてていねいにまとめあげていた。池袋で被災地に向う人の中から、店の再開を望んでくれる人たちに押されてクリスマスに開店したいと東京に用品を買いにきた若いTさんをつかむ。もうひとりは、毎年末帰省し母と叔母の営む居酒屋で近所の人たちと過ごしつづけていたというHさん。実母は亡くなったが、叔母に店を開店させていつもの大晦日にしたいと願って店の再建を手伝いに行くために何回も夜行バスに乗っているという。

それから師走。24日、ケーキ店には見事なクリスマスのケーキが並び、店いっぱいの人々の顔はほころんでいた。Tさんの顔ももちろん。31日、居酒屋は賑やかだった。店主の叔母さんははりきりっぱなしで、その後ろには笑顔のHさんがいた。

高速バスの運転手のKさんは仮設に住む。夜行バスの利用者の何人もと顔見知りになる。

画面の一コマ一コマに制作者の人間に対する温かさを感じ、見終わっても被災を越えて生きる人たちの強さと温さを私の体に残してくれるものだった。

時代劇の問題はいつの間にか別の方にずれてしまったが・・・。

2012年01月06日

みなさま、私たち研究センターのこと、今年もよろしくお願いいたします。

退職してしばらくの間 歳を重ねることは心中穏やかでなかったのですが、今は、その動揺はすっかり消えてしまい、心静かに新しい年を迎えました。それでも今年は、去年につづいて、どう生きるか自分で自分を試す年になるだろうなあという気持ちになっていることではいつもと違っています。

5日は宮城民教連の冬の学習会に参加しました。第57回なそうです。よくぞつづいているものです。

きわめて静かな集会でした。何しろ、もう新学期が始まっている学校があるというのですから、参加希望者で何人もの断念者がいたのでしょう。会場だけでなく廊下を歩いていても参加者の熱気の伝わってくるのがいつものことであり、そこに新しい年あけを毎年感じてきていたので、寂しさは隠せませんでした。

そんなことを言いながら、最近は参加の是非について毎年悩むようになっているのです。学校を離れて時間が経つと、自分のクラスのことを話せないので発言することに勇気を要するようになり、しゃべっていてもどう聞いてもらっているかがひどく気になるからです。発言を控えるように努力はするのですがつい口を開いてしまい、その後どうも味のよくない気分を繰り返しているのです。

今年も自分に鞭打って参加したのですが私にとっては収穫があり、参加してよかったと思いました。教室のことを聞くのは現場を離れてもワクワクしてきます。直接的にも、研究センターのこれからを考えるために参加してよかったと思いました。

私にとっての今年1年は、今年もまちがいなく冬の学習会から始まりました。